精神衛生低減の出処について考える。
家族の起床が 7 時から 6 時に繰り上がった結果、自分の可処分時間が一時間減った影響は大きい気がする。ほぼ半減。早起きすることでオフセットしようとしたが、うまくいっていない。
暗黙の前提として起床が一時間早まることで一日のタイムテーブル全体が一時間前倒しになると考えていたが実際はそうもいかず、現実には単に自分の朝の labor が一時間増えた。これは以前は自分が一時間分の labor をゆこっぷ(奥様)に押し付けていたということなので文句をいう筋合いはないが、可処分時間が減ったのもまた事実。
結果として、たとえばいつも翌々週の podcast のために読む論文まで決められていたのが常に自転車操業的になり、読んでまとめる作業も仕事の昼休みプラスアルファまではみ出している。
なにができるか/すべきか。
- 夕方のタイムテーブルに変化がないので、自動的に早く就寝できるわけではない。早く寝るための工夫が必要。なにか考えないといけない。ダラダラする時間を最小化してさっさと風呂に入って寝るのが良いが、一日のおわりは疲労がピークなのでだらけがち。たとえばだらけの原因になりがちな電話機を今より厚く隔離するのはどうか。どこに?
- 朝はすっぱり諦め、夜更かしする。これは世間では人気のある選択肢だが、年寄りだと夜は疲れてて頭はたらかないのでいまいち。
- Fasting を通じて食事はそんなにたべなくてもよいことがはっきりしたので、昼飯は同僚などに誘われない限り適当にヨーグルトとかサンドイッチで済ませ、昼休みを積極的に可処分時間に転嫁していく。これはできそう。ただし過去の似たような試みは軒並み失敗しているのでその理由については考える必要があるかもしらん。
- 一歩危険水域に踏み込み、平日にも一日 leave me alone する日を作ってもらうのはどうか。朝早く家を出て、スタバに行き、そのまま出社。直接会社に行くでも可。これは家庭円満と可処分時間のトレードオフなので、あまり望ましくはない。
- その枠を夕方にもってくるバリエーションもありうる。ただ夕方は疲れてるので時間あってもそんなに嬉しくない。
- 家族のためではなく自分のためだけに有給を使い、可処分な一日 or 半日をたとえば monthly とかで確保する。これも家庭円満とのトレードオフ。
- 会社にいきつつ真面目に働かないでなんかする。これは雇用と可処分時間のトレードオフ。やばい。まあ現状もビルドまちにインターネットとかしているわけなので、そういう時間をなんとかできないか考える。しかしこれほどうまくいかないものはないことが過去の経験からわかっている。そして最近は仕事はたてこみがちなのである。
小銭の力でなんとかするオプションはないものかと思うが、既に職住近接、片働き化という大きなカードは使用済。うーむ。
まずはアグレッシブな早寝(ばかげた響き)のための施策と、昼休みの fast 化から。時間それ自体の確保とは別に、可処分時間の使い方も考える必要はある。それは別枠で。
しばらく考え、もっと攻めていい気がしてきた。上のストーリーは腰が引けすぎている。
タイムテーブルの細部を見ると、自分がボトルネックではなく他の人を待っている時間がある。このアイドルサイクルで他の人つまり奥様のロードを引き取ればトータルのレイテンシは減らせるんじゃね?そういうサイクルパズルで詰められそうなパスはけっこう残っている。
自分の仕事を増やすことで自分の時間が増えるというのは一見逆説的だが、これいわゆる work stealing というやつじゃん。ブレイクスルーの予感。ただし過労に注意。
ATP の co-host である Casey がフリーランスという名のフルタイムポッドキャスターとして会社をやめてから一年くらいたった。楽しくやっている模様。
Casey は紛うことなきインターネット芸人プログラマだ。自分はインターネット芸人的プログラマがあまり好きでなかったし、自分のインターネット芸人的側面も嫌だった。ただ Casey を見ていて少し意見が変わった。嫌いなのは単に特定のインターネット芸人のステレオタイプなのだとわかった。
一部の芸人プログラマは芸人としての力を使ってプログラマとしての実力を水増ししようとする。それは意識的かもしれないし無意識かもしれない。本人の意図とは別に聴衆が勝手に誤解することもある。いずれにせよ芸を磨いた方が良いプログラマに映る事実がインターネットのプログラマコミュニティに与えるかもしれない影響は、自分にとって好ましいものではなかった。
Casey は芸人プログラマであるものの、自分の実力を boast するところがない。もっといえばほとんどプログラミングの話をしない。それは ATP なり Analogue の聴衆がプログラマより広い聴衆(すなわちアップルファン)だからという面はあるだろうけれども、それよりは本人のパーソナリティに思える。
Casey は nice person である。あるとき Casey のつくった小さなインディーアプリが TechCrunch にとりあげられる出来事があり、当人を含む多くの人を驚かせた。その件を振り返る ATP のエピソードで、ホストの Marco Arment はこれを Casey の niceness に attribute し、それを flatter した。TechCrunch の編集者と Casey やその仲間たちは古くからの友人であり、その関係が記事の登場に影響したというその指摘にまったく嫌味はなく、ただ being (very) nice であることはときに credit されるし、そんな君をみんな好きだよ、という話。Casey の being nice なところが好きでたまに Analogue (当人メインの podcast) を聴いている身として、これはよくわかる。
卑近な見方をすると, Casey は自分の personality でカネを稼いでいる。それを生活の糧にしている。そして Casey がプログラマである事実は personality に彩りを与えている。例えば自分は TV に出てくるような一般的な「いい人」芸人には興味がない(テレビみないし)が、Casey は ATP をきっかけに存在を知り、その性格ゆえにフォローしている。Marco Arment は以前「Podcast は話題をきっかけに聞き始め、パーソナリティを理由に聞き続ける」と言った。これが真である程度は個体差があるだろうけれど、少なくとも Casey の武器は being very nice な personality だと思う。
プログラマ中心の視点で見ると、Casey は personality で金を稼ぐ芸人プログラマである。その事実はまったく隠されていない。自分もそんな Casey を敬愛している。
冒頭で stereotype として描いたようなインターネット芸人プログラマを自分が嫌いなのは、一つには単にそのステレオタイプが自分の好みでないからだった。けれど芸人プログラマにはもっと他のありようがあった。
もう一つ、自分はコミュニティにおけるプログラマのあり方に狭量だったとも思う。もっといえば、インターネットでのアテンションはプログラマの実力に応じて分配されるべきであり、芸人プログラマはその取り分を掠め取っているように感じられた。けれど自分のボンクラぶりがはっきりした今にしてみると、これは随分と息苦しい意見に思える。
関心と実力は特に紐付いている必要はない。関心を欲している人がそれを持っていけば良い。関心の払い手であるコミュニティがそういう態度でいる方が、関心を集めたい芸人やメディアが実力詐称の誘惑に負けずに済む。コミュニティは単に芸人としてのスキルとプログラマとしてのスキルを混同しなければよい。それは今の時代ならできるのではないかな。
実力がないならないなりに居場所のあるコミュニティの方がボンクラには居心地が良いから、そんな多様性を応援できるよう自分に染み付いたドラコニアン的態度は改めていきたい。
そんなことを考えるのは、自分はプログラマとしての実力より芸の力にキャリアを助けられてしまったと感じているからでもある。いちおう今の勤務先に入るときは面接を通過しているし、今の職場で芸を頼ったことはない(頼りにならない)けれども、職業人生全体でみると芸に頼った瞬間はあった気がする。
Attention trading が現代のスキルポートフォリオの一部なのは事実だけれども、そこには dark pattern や growth hack 的後ろ暗さがあり、居心地はよくない。そういう自覚に至ってからは芸人的行動をする際には transparency のためボンクラ性を強調するようにしている。板についたハッタリ感が滲み出してしまうときもあるけど・・・。
まともなプログラマが Kaggle とか GitHub で修行しているのを片目に可処分時間をぜんぶ podcast につっこんでいる身として、自分はもはや芸人として生きていく方がいいのではと思うこともある。でもまあ、仕事がぱっとしないマイクロセレブワナビーにありがちな現実逃避のファンタジーだね。Podcast をやるのは自分の芸人性向が満たされて楽しいけれど、Casey と違い自分の番組が生活費を払ってくれる可能性は微塵もない。多少ボンクラでもプログラマを続ける方が、どう考えても実入りは良い。これは自分が運と成り行きで恵まれた待遇のプログラマとして働けているからでもあろう。
インターネット芸人プログラマの受容と、自分が芸人になれるかどうかとは無関係。やっぱ Podcast とかやって遊んでないでちゃんとプログラマとしてキャリアを前にすすめることを考えないとなあ。
近隣チームの TLM の下から二人続けて人が出ていった。他所の部門に移ったという。
TLM というのは TL 兼業の EM で、いわゆる playing manager. 下についている人数は少なめ。専業マネージャへの移行過程であることが多い。といっても特にエラくもならずそのまま TLM を続ける人の方が多い気もする。(なぜならエラくなるのは一般に難しいものだから。)
出ていった人たちはもともと acquihire 的に入ってきた人たちで、それほど能動的にチームを選んでいない。本来やりたかった方向の仕事に移っただけかもしれない。一方で件の TLM は随分と細かいことにうるさいある種の micromanagement をしていたので嫌気の差した可能性も自分は疑っている。他人事なので深くは追求しないけれど。
TLM は専業の EM に比べるとしばしば micromanage しがちに見える...あ、多くの TLM の名誉のために言っておくと、別にみんながみんなそうなわけじゃないですよ。
下についている人数がすくないせいで micromanage 「できてしまう」面はあるだろう。面倒を見る相手がある人数を超えると micromanage は現実的に無理。官僚的にガチガチとプロセスを固めればできるかもだが、幸いそれは組織の風土と相性が悪い。
別の理由として、TLM は TL というだけありしばしば technically opinionated なせいで下々より良いやり方を思いついてしまい、下からの提案を論破してしまったりする。 この「より良い」は当人の主観なわけだが、実際より良いこともよくある。なぜなら多くの TLM たちはエラくなるだけあってエンジニアとしても割と実力があるから。とはいえ当事者の提案する方法を却下して自分の案を押し付けるとか、一般にはムカつくことである。
そういう意味で TLM の micromanagement は伝統的な管理職による micro-management のステレオタイプとは違う。締め切りとか進捗とかにうるさいというより、仕のやり方やソフトウェアのデザインとか実装の方針みたいのにうるさい。しかし下々としてはどっちも等しく嫌である。
そういう micromanaging-TLM の下ではまったく働きたくない一方、peer, team mate としてみると彼らは結構(というかだいぶ)頼りになったりするので気分は複雑。下々を手足のように使い複数人がかりで面倒くさい問題をぱぱっとやっつけてくれたりする。自分も件の TLM にはだいぶ世話になっている。エンジニアリング的な趣味や価値観でいうとチームのなかでいちばん「こいつわかってんな」と感じる。そういう実力派だから下に人をつけられる面はある。
TLM の micromanaging nature はしばしばマネージャとしての成長の過程かもしれない。どうすれば彼らがより良いマネージメントスキルを身につけられるのか・・・は自分が口出しすることではないのでおいておくとして、そういう TLM の下についたらしたっぱとしてどうすべきか。
まず一番いいのはそもそも TLM の下につかないこと。一人で仕事ができ、TLM の「面倒見の良さ」(かぎかっこ)が必要でないと認識されていれば専業マネージャの下で放置しておいてもらえる可能性が高い。自分は今のところこれに成功している。しかし今の勤務先でのキャリア前半、そういう目に遭わなかったのは単に運が良かったからに思える。
もし運悪く TLM に micromanage されてしまったら?
ケンカしても評価が下がったりして損するだけなので、心を無にして指示に従いつつ逃げ出す先を探すの良いのではなかろうか。望まぬ mindfulness skill が問われるけれど、会社員人生そういうこともある。
TLM, 自分でプログラマとして働きつつ追加で people management の仕事を増やされても特に嬉しくない。だから TL 的な立場で自分の能力を拡張する手足として部下を micromanage したくなるのはわかる。自分も同じ立場なら同じことをしていまうかも知れない。TLM がどのような mindset で仕事に望めば皆がハッピーなのか。わからない。わかる必要がない身分を有難く思っておこう。
むかし、隣の同僚が「俺マネージャになるわ」といって TLM になったことがあった。自分はその TLM の下についたが、もともと team mate だったせいもあって特に上下関係は感じなかったし、あれこれ指図されたりもしなかった。人事考課はされたはずだがどうだったか記憶にない。
そのひとは結局一年ぐらいして「やっぱ向いてなかったからマネージャやめるわ」と IC に戻ってしまった。
そんなわけで note 書いてみっか、と試してみる。しかしダメであった(自分の出来が)・・・。公開するに値せず。
自分がオンラインで読んだものを紹介する、というのをやってみた。リンク、要約、一言感想、みたいのを並べていく。みんなも紹介した記事を読んで面白かったとかどうとかいう話をしようじゃないかという趣旨。
なにがだめか。まず自分の書いた要約がつまらない。自分としてはリンク先の関心を横取りしたいのではなく読者にリンク先を読んでほしいので、読んだ気になれる文章を書く気はない。一方で「読みたい気になる要約」という意味では文章のタイトル、ヘッドラインが圧倒的に優れているので、ちょっと使える字数が多いだけでやる気ない第三者が付加価値を生むのは難しい。自分の要約能力が低いだけかもしれないが、とにかくこの要約文のつまらなさといったらない。我ながら。
感想もぱっとしない。要約だけ読んで本文は読んでない読者向けに何を伝えれば良いのか。特に言うことない。ついでに自分は批評をしたいわけでもない(し、いちいち批評を加えるような文章を読んでいるわけでもない。)ディスり芸みたいのもやりたくない。「すごい。面白い。びっくりした」くらいしか書くことがない。
読んだものをただ並べるというのもいまいち。なにも考えずにならべると時系列になるのだが、結果として紹介文全体のストーリーもテーマも存在しない。そんなら Twitter にでも書けばよくね、という気になる。実際世の中のリンク横流しインフルな皆さんは Twitter をやっているわけだし。
ついでに読んでるものもなんというか、ほんとにそれ紹介したいの?みたいな気がしている。紹介を書いてみたのは The mindfulness conspiracy, ‘They Were Conned’: How Reckless Loans Devastated a Generation of Taxi Drivers, The rise and fall of French cuisine, How Millennials Became The Burnout Generation とかなわけだが・・・なんつうか、アメリカの話なんだよね。あるいはイギリス(the guardian) 。Mindfulness とか Millennial とか日本語圏の読者どれだけ興味あるのだろうか。自分にとってアメリカの話というのは(住んでるので) relevant かつ (長くは住んでないので) novel なわけだが、novelity はともかく relevance はないよなあ。まあ興味ないよね。
日本の読者の多くがアメリカに興味を持つ文脈って armchair cultural study すなわち他国をだしに自国をディスったりおだてたりする話である。しかし自分は日本との比較はそんなに興味ないというか、なくはないが比較できるほど詳しくないし、そもそもそうした他人褌出羽守活動はやりたくない。詳しくないという話だと、ソフトウェア関係以外に自分は何の専門性もないので、紹介できるだけのリテラシーあるんか、という疑問はある。というかリテラシーない。
などなど、自分が書いた文章が自分にとってすらここまで面白くない体験は久しぶりでびっくりかつがっかりしてしまった。この路線はダメだな。
「読んだものを紹介する」活動をやろうと思ったのにはいくつか理由がある。
一つは、自分が読んだオンラインのリンクをただ捨ててしまうのは悲しいので、記録をつけてあげたい願望が昔からあったこと。世の中の人は Twitter なりブックマークサイトを使う用途だろうし自分も pinboard を使ってるが、自分にとって pinboard は reference であって journal ではない。もうちょっと日記的につけたい気持ちがあった。まあ fragments でいい気もするけれど、自分の話と何かを読んだ記録は分離したい気もしていた。記録のつけ漏らしも多いし。
もう一つ、日本語の「紹介記事」が持つ関心のサヤ取りが自分は気に入らなかったので、元記事を読むよう励ますテキストをできないかとぼんやり考えていた。結果としてこの試みは今回は失敗した。たぶんなにか違う take が必要なのだろう。
あとは最近 Digg Long Reads, Longreads, /r/Longreads などを購読して今まで自分に降ってこなかった類のコンテンツに出会えるようになったのを喜んでおり、これらリンクを横流ししたい気持ちがあったかもしれない。
世の中の newsletter の類はリンク先を読ませることに成功している印象だが、あれはそれなりの専門家が情報収集に時間をかけており、かつジャンルを絞っているからうまくいくのだよなあ。ランダムな人間がランダムに読んだもの、という切り口は厳しいというか、切り口になってない。むかし(今もあるかもだが)ニュースサイト、フィルターサイト、リンクサイトなどと呼ばれるランダムな個人がランダムに読んだリンクを列挙するサイトがあったが、それらは social aggregator にとってかわられた。 ああしたサイトの運営者のようにインターネットで時間を溶かしていない自分がその劣化版をやろうとしたと考えるとますますうまく行かないのは無理もない。
色々筋が悪かったということで、違うことを考えます。
追記 08/02
Podcast の宣伝兼おまけに使うことにしてみた。音声でのフォローアップ、ATP の真似ではじめたがいまいち機能してない気がしていたので別の方法を模索してみてよいでしょう。なお宣伝の効果は今の所でていない。文章として読まれ広まるコンテンツでないと宣伝にはならないのだろう。まあいいです。
Kzys が note.mu などを使い始めるという。
むかし Mercurial ユーザだった頃、Kzys に「時代は Git ですなぜなら GitHub があるからです」と言われて Git を使い始め、それが圧倒的に正しかった体験から Kzys の流行りものへの適応には信頼を置いている。自分の中二病的アンチメインストリーム傾向は他人の力で訂正するしかない。(同じ理由で Higepon のメインストリーム力にも高い信頼を置いている。)
自分は Qiita や DEV に値するがんばった技術的文章を書く気はない。けれど note はつかってみていいかもしれない。それがなぜかはわからないが、それがなぜかを理解するために。
文章に課金したい書き手にただメッセージを公開したい自分のような人間が混ざるのは筋が悪そうではある。というか同業の Medium がその筋の悪さを pay-nudge-walling で体現してしまった。note (capitalize しないの気持ち悪い...) に同じ問題がないのかよくわからないが、そういうことをいっていると "grumpy 中年" になってしまう。
ある platform に参加するには、書くだけではなく読んだほうが良いと思う。そうしないと雰囲気や流儀みたいのがわからないし、書くだけではコミュニティに所属して楽しくやるのも難しい。
そう思ってアカウントを作り note のサイトを眺めていたのだが・・・。なんというかテクニカルなレベルで出来が悪くてげんなり。
- たとえばトップページからリンクされている "ピックアップ" というページに "ルール1, ルール2, ルール3" みたいな placeholder が残されている。数週前から治ってない。正気か?
- モバイルウェブでみるとレイアウトが崩れている(画面にフィットしない)。コンテンツサイトでこの初歩的な壊れ方はどうなんだ。きっと iPhone ではちゃんと見えるのだろうが・・・
- アプリはウェブよりはマシだが、ウェブでやってほしいくらいの機能しかない。オフラインとかないんすか・・・。
- エッセイマンガが多いが文章と混ざって降ってくる。マンガに人気あるならちゃんと UI で優遇してやってくれや・・・というかもうマンガサイトに pivot した方がいいのでは・・・。
ここでめげてはいけないと歯を食いしばってしばらく冷やかしているが・・・読みたいものが無い。
- エッセイ漫画興味なし。文章を書きたい人とコミュニティがかぶってるのか疑問。
- 意識高くなりそこねた自意識日記およびエッセイ。人々がこういうのを書くのはいい。でも自分は特に読みたくない。
- 情報商材っぽいなにかへのリンク。
- 中身のないビジネス風記事。
自分は根本的にいまあまり日本語を読みたくないし特にアマチュアの生煮えテキストを読みたくない、という問題はあるかもしれない。ならばなぜお前は日本語で雑文を書いているのかと言われるとまったく反論の余地はないけれども。
note やるぞやるぞと決めてから改めてソーシャルメディアなどに流れてくるリンクを見ていると、たしかに note で書かれたものはある。それらは必ずしも自分が読みたいものではないが、サイトの feed に提示されるものよりはマシ。しかし運用は人気のあるものを流さない方針という。治安がどうこういうビジョンはわかるけれども、結果として人が集まらないと書き手に読者を提供できるのか?そしてサイトのランキングをいじったところでハイパーリンクのある世界の炎上から距離を置けるのだろうか。いまいち信じられない。結局ソーシャルメディアからの流入に頼ってたらダメだよね。
アマチュアコンテンツの platform としても note はそれほど独占的でなく、はてなブログや LINE ブログのような従来の blog platform もよく見かける (LINE ブログは「従来の」ブログではないかもしれないけれど。) 英語圏で感じる blog の死んでしまった感は、日本語には無い気がする。
一歩さがって考えると、ブログの末裔が存命なおかげで note は Medium と違い「課金したい書き手」というニッチに集中できているのかもしれない。別の言い方をすれば note は blog の代替ではなく newsletter ... というかいわゆる「メルマガ」の代替なのだろう。そう考えると feed の ranking とかをチューンしないのもなんとなく納得できるが、一方で自分にはますます必要がないものに思えるなあ。
冒頭の「サイトからのおすすめを読むことで note というコミュニティの参加者になる」というアイデアも、メルマガ的視点でいうと筋違いなのがわかる。つまりこれら有料コンテンツの世界では一人ひとりの書き手を中心に microcelebrity 的コミュニティが構成されており、それら同士はあまり crossover しない。あるいは(有料の)書き手が別の(有料の)書き手を参照するという形でコミュニティ同士が接続される。そこに読者の姿はない。読者を過剰に empower してしまったソーシャルメディアへのアンチテーゼとして、これは一定程度正しい。
ソーシャルメディアに流れてくる note 記事の書き手にしろ、特段コミュニティとしての note に入れ込んでいるようには見えない。これは昔の blog community みたいのとは違う。世界は flat ではなく、書き手と読み手に分断されている。もっといえば有名人と mob に分断されている。そこに the world being flat というファンタジーへの郷愁がないところは post Twitter というかんじで潔い。
そう考えると望ましい note への参加方法とは、人気のある書き手の note を購読しつつ、自分も購読料で一山あてたい野心をもって有名人に絡みつつ note を書く、とかだろうか。ここで Internet microcelebrity as MLM 批判を持ち出す気はないけれども、興味もわかないな・・・。
がしかし!こうした外側からの表層的な批判が孕む的外れさから逃れるために!我々は実際に何かを書いてみる必要があるのではないか!景気づけに一人称複数ですが自分の話です。
しかしこのブログのようなことを書いてもめんどくさくなるだけだしどのみち時間も気力もないので、毒にも薬にもならず書くのもそんなに大変じゃない話題でなんか書くことないかなあ。
自分でやるのはめんどくさいのでゆこっぷ(奥様)に「なんか書いてよ」といったら断られた。一人称複数とは。
追記 (2019-07-30)
via ニューヨーク・タイムズは日本を「独裁政権」と呼んだのか、気炎を吐いても息さわやか - ネットロアをめぐる冒険
珍しく NYT が話題になってるので眺める。
- 朝日新聞、というか新聞全般はいつも元記事をリンクしないのがひどい。
- それはそれとして <Japan is a modern democracy where freedom of the press is enshrined in the Constitution, which American occupiers drafted after the war. It is not the kind of place where journalists are denounced as the “enemy of the people.” Still> ときて <the government sometimes behaves in ways more reminiscent of authoritarian regimes> と「現代民主主義」の対なうえに "regime" なんだからネガティブさを強調する語として「独裁政権」は別によくね?
- リンクされてる「権威主義体制」訳の文章はアカデミアの書いたテキストで、それとこのライトなポートレイト記事の訳を比べても仕方なくね?
- NYTimes がすごい無色透明な報道機関であるという前提がある気がするが左よりで opinionated なメディアだし、そうでなくてもアメリカのニュースは(リンク元の asahi.com の特集が示唆するように) Trump がらみで言論の自由にピリピリしてるんだから、歯に衣着せぬ感じな「それでも日本政府はときに独裁政権をほうふつとさせる振る舞いをしている」という訳は権威主義体制みたいなやんわりワードより雰囲気を伝えている。なにかニュートラルな話をしてるんじゃなくて直球でディスらてんのよ?そのニュアンスを伝えたかったんでしょ。
- まあ記事はディスりが本題ではなくこの記者の存在の興味深さなので、NYT が日本を独裁のようと批判したとする cherry picking がフェアかどうかはまた別。どちらかというと掴みためののレトリックじゃね。
- ちなみにコメント数を見ればわかるとおりアメリカ人には興味ない話題なのだった。東の方には独裁政権いっぱいあるからね。(自分も冒頭記事を読むまで Ms. Mochizuki 知らなかった。日本のニュースもうちょっと読んだほうがいいな・・・)
Fragment に書いていたら長くなったので別記事にしてみる、という実験。
一歩下がって考えるに、これは翻訳というものの限界な気がする。
自分の感覚だと「権威主義」という言葉はアメリカ人のいう "authoritarian" ほどネガティブな空気を纏っていない。それはたぶん歴史的に割と authoritarianism っぽい文化が通底しているからな気がする。ついでに「体制」という後も、戦後すぐならともかく 21 世紀には "regime" ほどネガティブなニュアンスがない。
なので "権威主義体制" は直訳としては正確だが "authoritarian regime" という語が孕む「うげーヤベーなあいつら」という雰囲気を伝えていない。でもこれって直接的な意味のマッピングと価値観や雰囲気のマッピングの間にある不一致がうんだ lost in translation だよね。
ついでにアメリカ人にしてみれば authoritarian も dictatorship も等しく悪なので、そこを繊細に使い分ける動機はない。NYT の寄稿者の中にはそういうのを気にする書き手もいるだろうけれど。リンク先の記事はもうちょっと雑。
朝日新聞の記事が雑さのギャップにつけこんで我田引水してるのは事実だと思うのでそこにケチをつけるのはいいと思うけど、ある語の訳を nitpick するのは生産的ではない気がする。
メタなマウントとして、リンク先の記事も朝日新聞も NYT を絶対視しすぎ。NYT -> asahi.com でもちこまれた歪曲は NYT 元記事の左傾や雑さによる歪みに対して significant なのか?NYT いいメディアだけど別に隈なくクオリティ高いわけじゃないよ?日本の話なんてとくに眉唾がちなんだから、ちゃんと読んでケチつけといたほうがよくね?
我ながらクソのような出羽守を書いてしまった・・・。しかしそうした衝動の掃き溜めとしてブログ書いてるからいいのです。
ハイエンドスマホ付属アプリの仕事をしていて言うのもなんだけれど、スマホはもうちょっと安くて退屈にならないものか。じっさい新興スマホメーカーの多くはスマホの安くて退屈化、すなわちコモディティ化を目論んでいたはずだが、いまいち成功していない。PC はもっと順調にコモディティ化が進んだ記憶がある。
もちろん安いスマホはたくさんあるし、台数を見れば売れている。けれど業界の中心にある感じがしない。端的にいうと iPhone や Galaxy をやっつけられていない。OnePlus はかなりいい位置にいたはずだが、いつの間にか高価格化の波に引きずり込まれている。ハイエンドの電話機が段々と売れなくなっているのは事実だけれども、結果として起こるはずの値崩れが起こらず、逆に値上がりしているのは興味深い。
これは要するに Apple が頑張って差別化に成功し続けているということなのだろうなあ。成功の陰りは販売台数の減少から明らかとはいえ、それでも多くの人々が iPhone を買い続けている。iPhone の差別化にはハードウェアだけではなく iOS のエコシステムも含まれている。エコシステム側の差別化が難しい Apple 以外の電話機メーカーは苦労しているけれど、Apple はだいぶ粘っている。
とかいってる間に PC もコモディティ化が底を打って値上がりしている様子があり、これもやはり Apple / Macbooks の影響に見える。スマホと同じく安くラップトップはいくらでもあるから、コモディティ化が失敗したわけではないけれど。
PC もスマホも安くて退屈になってほしい自分ですらハイエンド機に物欲を刺激されがち。これはガジェットへの金遣いが荒くなっている愚かな中年という面はある一方、愚かな中年を散財させるコンシューマ向けコンピュータというマーケットを切り開いた Apple はなかなか大したもんだとも思う。
もともと「スマホのコモディティ化を食い止めた Apple なかなかやる、しかし自分はコモディティ化を支持する。」という話を書こうと思っていたが、よく考えると自分は仕事からどうしょうもなくバイアスを受けている事実に気づいてしまった: スマホはコモディティ化している、けれど自分はハイエンドスマホが欲しい。自分の物欲を業界動向にこじつけるのはよくない。
仕事でスマホ関係をやってなかったらコモディティ化の恩恵にあづかり OnePlus なり 3a なり Moto なり Nokia なりの適当な middle-end を雑に買って使っているであろうことを思うと、ガジェットに近い仕事は無駄に物欲が刺激されがちでよくない。
今回の旅行は荷造りグッズを少し拡充してみた。
まず packing cubes を買い足した。バックパック用に小さいのを増やし、要洗濯衣類格納用に大きいのを増やした。どちらも役に立った。特にバックパック用は子どもの着替えやタオルを突っ込んでおくのに重宝した。複数個セットでしか売られていないのが不便・・・と思いきや余剰分はゆこっぷ(奥様)が活用していた。
パスポートケース、これまで使っていたのが壊れかけでパスポートが危険に晒されていたため交換。グリップしやすいので盗難への備えになってる気がするのと、ペンを入れておくと税関の書類を書く役に立った。リンク先のやつは安っぽい。金を払えばもうちょっとコンパクトになりそうだけどまあいいです。
そして Toiletry Bag. オフィス女子がトイレに持ってくようなやつ、という差別的認識だったが、製品説明によると登山者とかも使う想定らしい。洗面用品だけでなく細かいケーブルみたいなガジェット周辺アクセサリもつっこめる。荷物がだいぶ片付き満足。飛行機の機内持ち込みにも重宝した。これも金を払えばではある。
あとはスマホをパクられにくい状態で持ち歩くのに便利なカバンが欲しい。バックパックの外側のポケットに入れるのも、衣類のポケットも、若干不安。今は通勤用のバックパックをそのまま使っている。そして旅行専用バックパックは増やしたくない。