Spinach Forest

冴えないバイリンガル脳

ふと思い立ち、バイリンガルや日本語の英語教育に関する本を何冊か冷やかした。

バイリンガル教育の方法 / 新版 世界で活躍する子の<英語力>の育て方 / ほんとうに頭がよくなる 世界最高の子ども英語

子の実情と照らし合わせてなにか書こうかとも思ったが当人のプライバシーを踏まえて思いとどまり、かわりに我が身に思いを馳せる。

自分は、先の本にあるような教育は一切うけず、そもそも英語は好きでなく、高校生の頃とか発音にも一切興味がなくローマ字読みで綴りを覚えるような有様だった。ただソフトウェアの世界があまりにも英語なので大学生活の後半くらいから徐々に英語コンテンツ(主にインターネットの活字や技術書)を摂取するようになり、しかし中二病なので「英語の勉強」をすることはなかった。(自分の中で英語は「そこそこできる」ことになっていた。客観的には事実でない。)

その後社会人になり、米資企業に転職した友人の影響で英語勉強法を真似するも根性がなくて続かず、ただコンテンツの摂取はなんとなく続けた。あるとき弾みで自分も米資企業に転職し、おかげで必要に迫られ慌てて勉強し少しはマシになり、別の弾みで今度は沿岸地区に転勤して⋯しかし英語の勉強はあまりしなかった。すればよかったけれど好きじゃないんだよね多分。シャドウイングとか発音とか、ちょっとだけやったかな。

ただコンテンツ摂取はより活発になり、現地の文化等を理解したい意図もあって新聞とかも少しは読むようになり、あと移動時間などを活かせる podcast や audiobook は、特に子供が生まれたあとはかなり聴くようになり、今日に至っている。 (最近は NYT の記事も耳で聴くことが増えてきた。いつからか登場した自動音声の品質がめちゃ高いので。どこの TTS なのだろう。)

こうしてみると、自分に足りなかったのは根性だと思う。特にコーチをつけて人間相手に発音や議論の練習をしたり、仕事場やそれ以外のコミュニティに参加するなど、苦手意識克服修行をしなかった。このサボりは自分の喋れなさ、発音の悪さに直結している。

一方で、根性レベルが低いなりに低負荷でこなしたコンテンツ摂取はそれなりの成果があった気がする。語彙やスループットがある程度鍛えられた。総じて滑舌のいい人気 Podcast を聞いていても現実世界人相手の聞き取りには必ずしも直結しない。それでも第二外国語話者として「ネイティブの速度」にはまあまあ慣れた。(真の上級者は podcast とか 2x 以上で消化できるらしいけど、それはそれ。)

先に読んだ子供向け英語教育の本はどれも大量のコンテンツ消費(読書と映像 = 多聴多読)を強く推しており、子供に文法や単語の勉強はムダとしている。自分のコンテンツ消費は、たまたまこれに整合している。

そのほかの勧めとしては phonics を挙げている。自分は phonics はきちんとやったことはないけれど American Accent の教科書でちょっと読んだ気はする。(なお米国小学校も一時期 phonics を暗記的と忌避する傾向があったが、結果として識字率を下げてしまったため “science of reading” という旗印の下ここ数年で復活したらしい。子の学校も二年前にカリキュラム改定を知らされた。)

子供向け英語教育ではやらないことになっている単語帳、自分は iKnow やら Anki やらを転職後の一時期結構やった。そして効果は感じられた。こうした spaced repetition は根性ないなりに進められるし時間費用対効果が最強すぎる。これは日本語スキルが完成している大人ならではのショートカットと言えるだろう。


子供向け英語教育が多読多聴を推す理由の一つは、頭の中で英語を日本語に翻訳せず英語のまま理解するためだとしている。量を流し込み翻訳の暇を与えない。振り返ると、自分はこの「脳内翻訳」に突き進んでしまった時期があまりなかった気がする。なぜだろうね。始発点の中二マインドが「自分はそこそこ英語ができる」と勘違いしていたのがよかったのかもしれない。

この「直接英語理解」方式は、レイテンシが少ないのはいいけれど必ずしも自分の「英語脳」(メンタルモデルとして単純化された脳の機能のサブセット。LLM でいう MoE の activation みたいなもんです。)が賢いことを意味しない。つまりしょぼい「英語脳」を介した理解は浅いし、意見は幼稚だったりツメが甘かったりニュアンスがなかったりする。

昔の自分はこの知的劣化がかなり顕著だった。昔よりマシとはいえ、今でも仕事中は自分の認知能力のサブセットしか使ってない感じがある。

自分のしょぼい「英語脳」は、ロジックは扱えるけれど感情やウィットのようなリッチさがない。この未熟な英語だけで考えると物事がすごくドライになる。たとえば仕事で計画をたてるとき、自分の感情や直感を無視しがちなので後から逆火することがある。だから仕事の考え事で言語化できない不穏な気配を腹のあたりに感じたら、一旦ラップトップを持って席を離れ、日本語で気分をぶっちゃけた braindump をして自分の感情・腹感覚を確認し、それと整合性をとるように仕事を見直すことがある。

たとえば日本語を介して、必要だとはわかっているがメンドクセーみたいな作業を適当に言い訳して優先度をさげたり、上司はやれというが重要性をいまいち信じられない作業をやんわりと押し返したり、必要性は微妙だが精神衛生のためにやりたいリファクタリングをそれとなく織り込んだり、苦手な人と一緒に仕事をしないといけなそうなタスクをスルーしたり、といった本音に気づく。

「メンドクセー」「いまいち信じられない」「精神衛生」「苦手な人」みたいな概念は仕事の design doc, charter, one pager などには存在せず、テック・ビジネス・ジコケーハツに溢れる自分の摂取コンテンツでもあまり存在感がなく、したがって自分の「英語脳」が上手に扱えない。つまり本音が上手く扱えない(!)。同様に、人を説得する文章、面白い文章のためのメンタルモデルもない。これは個人の感情よりだいぶ高度なスキルなので並べるのが適切なのかはわからないが、自分にない点では共通している。

話を戻すと:子供向け英語教育の推す多読多聴は、英語を「ネイティブに」つまり翻訳レイヤなしで処理する能力を鍛える効果はあるように感じられる。ただしその「ネイティブ脳」の品質は、このままだとザルである。それをザルでない知性まで鍛えるには、自分の関心だけを頼りにした多読多聴以外の各種要根性アクティビティや、多読多聴にしてもジャンルの多様性が必要なのだろう。LLM でいうと多読多聴は pre-training, 要根性訓練は post-training みたいなかんじだろうか。

自分は、英語嫌いの中二病だったおかげで日本の伝統的な英語学習による歪みが(発音以外では)あまりなく、インターネット中毒者だったのと米国中心の情報産業従事や転職転勤からくるわかりやすい動機のおかげで多読多聴もジャンルの偏りこそあれ一定程度できた。おかげで「ネイティブ英語脳」の胚芽は、根性がないなりに獲得できた。ただそこから先は根性不足、訓練不足が祟り、未熟な英語脳を成熟させることができなかった。「英語を頭で翻訳してしまう」みたいな歪みはない一方、仕事で英語話者とガチ議論するような高い英語力は今もない。

回り道はない。根性もない。なので「こうすればよかった」という反省もない。

今まではさておき、今から要根性の post-training をやりたいか。やるならなにがいいのか。わからない。

少し前から妻が英語の ESL の学校に通いはじめ、宿題が忙しいといいつつ楽しそうなのを見て自分もなにかやりたいかもな・・・と思ったのがこの文章のきっかけの一つだった。特に結論はでなかった。