自分の育った場所は、自分みたいな人ばかりだよ
子の呼ばれた誕生日パーティーにて、同級生の父との会話の断片:
父氏「この寒さに文句いってたら笑われますね」
自分「どちらの出身なんですか」
父氏「インディアナです」
自分「寒い?」
父氏「そりゃもう。もう帰りたくないね」
自分「そうなんだ」
父氏「子どもを育てるにも、ここは diverse だしね」
自分「そうですね。めちゃ Asian friendly で助かってますよ」
父氏「Asian だけでなく色んな人がいるじゃない。自分の育った場所は、自分みたいな人ばかりだよ」
父氏は White である。
自分は Bay Area の人種的 diversity には感謝している。しかしその感謝はもっぱら自分のような Asian の多さに由来している: 食材が手に入りやすいといった実利的な利点もあるし、街に自分と似た外見の人々が一定数歩いている安心感のような心理的な利点もある。
こうした有り難みの身に沁みる度合と比べ、この地に Asian 以外の人々がいる、つまり diverse である、ことに関する appreciation は身に染みてこない。もちろん Asian がいる事実は人種的 diversity の帰結なので、重要性は表面的には理解している。また異文化を通じた学びもある。ただそれはわりかし理念的な有り難みであって、いまいち身体性が伴わない。
また人種的に多様とされている Bay Area にしても、自分の住む South Bay に Black は少ない。子の通う学校の統計を見ると Black 比率は 1% である (vs. Asian or Pacific Islander - この括りはどうなんだ - の割合はほぼ 40 %)。
もし自分が Black だったら、つまり周りに 1% しか同じ人種の人間がいなかったら 「diversity の有り難み」はどれだけ身に沁みるだろうか。
ついでに、人種的に多様とされる Bay Area も、経済的、職業的な多様性は低い (特に南側)。端的にいうとテックワーカーばかりである。
あるとき、やはり子の学校の学級懇談会のあとにぶらぶらしていたら、クラスメイトの親の一人が数年前つぶれたスタートアップの T シャツを着ているのに気付いた。「X で働いていたんですか。そこのファウンダーだった A さん、上司の上司ですよ」というと「それは奇遇だね、B さんもいるよね?」「いますいます」などと話が弾んで何らかの繋がりを感じ、地元への愛着が生まれた。しかし自分がもしテックワーカーでなく、たとえば・・・なんだろう、庭師だったら、そういう繋がりを見出す機会はどれだけあるだろうか。
アメリカ全体でみるとわりかしマイノリティである自分が感じている安心や繋がりといった community factor は、Bay Area が持つ局所的な diversity の低さに根ざしている。しかし Asian tech worker 高集積という Bay Area の diversion は、それを許容する diversity というアメリカリベラルの価値観に支えられている。少なくとも部分的には。
そうしたアメリカリベラルの価値観を自分は内面化できていないしできるとも思えないが、冒頭の父氏を含むこの地のリベラルは、少なくとも儀礼的にはそれを受け入れている。そしてその価値観を受け入れている人が多いほど、社会としては望ましい。
この点を踏まえると、自分はともかく子にはそうした diversity value を内面化してほしいね。そして自分もロールモデルとしてそうした価値観を真に受けたかのように振る舞うのが望ましい。日本食材が近所で買えてすばらし〜他所には引っ越せな〜い、みたいな態度は程々にしたほうが良い。
その点、なんの身体性も伴わないこの diversity という理念を真に受け支持してきたリベラル白人たちは偉い。抽象的な概念ばかりを追い求め現実を見ていないと批判されることも、特に大統領選以降は多いが、その抽象の向こうには助かってる具象もいますよ、めげずに行こうと伝えたい。