Publishing 2017
今年は 200 本くらい書いたらしい。
ふつうなら Twitter に書くような内容が多いし、仕事家事育児の合間にちらちら書く感じで、身のある話はあまりない。無駄に長いのはあるけれど、それは単に頑張って絞ってないだけ。人に読んでもらうものを真面目に書くのは、自分の中では終わったなと思う。
少し悲しくはある。またなんとか読めるものを書きたい気もするし、もういい気もする。いずれにせよない袖は振れない。どうしたものだろうね。
今年は 200 本くらい書いたらしい。
ふつうなら Twitter に書くような内容が多いし、仕事家事育児の合間にちらちら書く感じで、身のある話はあまりない。無駄に長いのはあるけれど、それは単に頑張って絞ってないだけ。人に読んでもらうものを真面目に書くのは、自分の中では終わったなと思う。
少し悲しくはある。またなんとか読めるものを書きたい気もするし、もういい気もする。いずれにせよない袖は振れない。どうしたものだろうね。
今年について。
1月に無事子供が生まれ、1Q は育休を取った。隙を見てやったのはアプリ開発。まあ何もやらないよりは良かったと思う。Kotlin に馴染めた。
2Q は主に Goodfellow を読んでいた。仕事はぱっとしなかった。復帰後に選んだプロジェクトがよくなかった。結局これが契機でチームを移ることにしたし。ただ自分にも明らかに非はあり、もっとうまくすすめることはできたと思う。
3Q は Goodfellow を切り上げ TF を少し触り、そのあたりで家事の忙しさが増し何もできなくなった。あとチーム変更の準備もいそがしかった。社内求人を眺める時間の確保にも手こずる有様。
4Q はじめに新しいチームにはいった。ただ下がりきった仕事への集中を立て直しそこね、最初の一ヶ月くらいを無駄に過ごしてしまった。気を取り直してピッチを上げた矢先、家族総出の大病気大会がはじまり、その余波でヘルニアになり病欠したまま年が終わった。仕事の外では引き続き何もできていない。
異動の感想とかは、まあ表立って書くことはないです。自分の実力をボトルネックにすることはできていると思うので、チームへの大きな不満はない。
今年の目標は、ML でなにか end-to-end で動くものを作る、だった。達成度はゼロ。異動を決めたあたりで失敗は確定したけど、その時点で何もコードがなかったので、どのみちダメだったとおもう。
だめだった原因は、自分がぼんやり考えていたアイデアが実力にあってなかったからだと考えている。データを集めるのがそれなりに大変で、モデルも多少 novelity が必要そうだった。バーが高すぎて手を動かすに至れなかった。
自分はデータの扱いもMLも素人なのだから、アイデアの退屈さは受け入れ既存の公開データを相手によく定義された問題を解いてみるべきだった。たとえば Kaggle の画像解析系を解いてみるとか。まあ、尊大だったね。難しい挑戦をしなれてない。次があったら謙虚にやります。
日々の印象として、自分のやってきたこと(やってこなかったこと)のツケを払うフェーズに入ったな、と感じた。良くも悪くも、これからさき自分の積み重ねの慣性から大きく舵を切るのは難しくなるだろう。舵とりの努力はするつもりだけれど、思うようにならない前提で人生設計しないと危険に思える。
子についてはここには書かない。なんとなくミスマッチに感じるので。
順不同。
Microsoft の CTO, Madella 氏による新しい MS の話および自伝。
すごく教科書的なモダンテック企業の社長だった。Emphasy, Inclusion, "Growth Mindset"... 半分くらいは、よその会社の偉い人、たとえば Sheryl Sandberg や Sundar Pichai が言っても全く違和感ない内容。ただそれが網羅的なのが印象的ではある。すごく勉強してるのだろうなあ。CS 出身で、大学の勉強を振り返りながら「(P-NPのような)計算量の理論は経営の役に立つ」みたいな話をしており、思わず応援したくなる。
ビザの話もちらっとでてきて、外国人仲間(?)としては MS パートより自伝パートの方が楽しめた。
テック社長読み物を続けて読みたくなり、IBM 社長版。15 年以上前の古い本。
Gerstner はコンサル出身のブロの雇われ社長で白人。Nadella とは対照的だ。いまのテックサークルはファウンダー/エンジニア信仰が強く、プロ経営者は嫌われている。自分も Gerstner は IBM をテック企業から受託開発企業にしてトドメを刺した悪人だと思っていた。
けど、そう単純でもないと心を改めた。なにしろ当時の IBM はガチで潰れかかっており、しかも分社化という筋悪の再建策を準備していた。Gerstner は少なくともその会社を立て直し大幅に延命した。インターネットの津波にも(受託開発という形で)対応した。
受託開発への舵によって、結局テック企業としての IBM は死んだと自分は外野として一方的に信じているけれど、他に良い方法があったのかはわからない。2000 年前後は実際にシステムのウェブ化みたいのが今より大きなビジネスで、すごく流行っていた。ACM の月刊誌すら企業の「IT化」みたいな話ばかりして、プログラマの仕事はオフショアされるから上流いっとけ、みたいな雰囲気だった。この流れを逃さなかった、というかほとんど作り出したといってもいい影響力は、評価されるべきなのだろうな。
そして Gerstner が持ち込んだ社内制度、たとえば年功序列に対する成果主義みたいのは、今のアメリカ企業はみんなやってることだ。そういう改革の話をよむと、アメリカの会社も昔は平和なもんだったのだなと思う。時折現れる旧 IBM 文化の奇妙なエピソードは、今読むと Catch=22 ばりに狂ってて面白い。時代をかんじる。
勤務先が傾いたとき、こんな雇われプロ社長がやってきたら自分は変化についていけるだろうか。景気に守られたゆるふわの皮が剥がれた酷しい世界で生き延びられるのか。こわいね。
など、予想に反して Hit Refresh よりだいぶ面白かった。
経営者読み物…ではないけれど。
Sandberg 個人のエピソードが孕むやや覗き見的な面白さを別にすると、基本的には Learned Optimism の話だった。
これは活字で読んだ。心理学者が書いた、楽観は学べるぞ!という話。Mindset や Grit に連なるモダンアメリカ根性論の始祖と言っても良い。認知療法との同時代性もある。
著者は「学習的無気力」の実験(犬に電気を流すやつ)が行われた現場に立ち会い、無気力が学べるなら楽観だって学べるのではと optimism の研究に邁進する。Option B で紹介される 3P (permanence, pervasiveness, personalization) はその主要な成果。
語られる楽観理論開発のエピソードがいちいち面白い。実は学習的無気力の実験には続きがあったという話、保険のセールスパーソンを楽観性ベースで採用したら退職率が減った話、大統領候補の演説を分析したら楽観ワードを多く使っている候補者が勝っている、などなど。さすがモダン根性論の始祖はちがうで。若干眉唾なのもあるが、そのへんは時代の荒々しさということで大目に見たい。
だいぶ前の本だけど古びないユニークさがある。個人的にはかなり面白かった。ただ自分は割とモダン根性論者なのでバイアスはあるかもしれない。
見も蓋もないタイトル。基本的にはお金や世間体に負けてはいけないよ、目的や使命感を持って生きような、という話。アメリカ、お金の重圧はなんか日本より厳しい気がする。格差社会だからかもしれないが…あるいは自分が友達のいない外国人だからか...
特別面白い本ではなかった。が、仕事について考える機会にはなる。
目的(Why)がないとだめなんだよ、というはなしで、ある意味上の本と呼応している。主張はわかるが、全編通じ結局は Apple サイコーという話で、そうかそうか…という気分。Apple サイコーという主張自体に特段異論はないが、その話はもう飽きたよ…神を信じよって言われてる気分だよ…自分そっち系じゃないんで...。
ただマーケティングというかメッセージングの本として読むとそこまで食傷感はないかも知れない。実際、著者はマーケティングのひと。
人の記憶に残るメッセージとは、という話。けっこう面白かった。しかし皮肉なことにまったく中身を覚えていない。たぶん今の自分には縁のない中身だったため。じゃあなぜ読んだのかと言われても困るけど。人に話をする機会が多い人向け。
エピソードは面白いが役に立たないというジャーナリストが書いた自己啓発本の典型とでも言う内容で、まあエピソードは面白かった。FBI はアジャイルで組織横断犯罪記録データベースを作り、MVP の時点で役に立ったぞ(ここで息を呑む誘拐犯追跡エピソード)だからおまえらもアジャイルしろ!みたいな。(この記事など参照。あと SEI が case study を出している。うさんくせー...)
どうでもいい本だったけど、軽薄な自己啓発が読みたい気分を満たしてくれたのでまあまあ満足。でもやっぱり自己啓発本ってちょっと狂ったくらいの実践者やアカデミアが自説を熱く書いたやつのほうが、多少粗があっても説得力あるね。
リーダーシップな立場にいる人達は下々に対し謙虚さと共感を持って話を聞かなければいけないよ、その技法がこの humble inquiry だよ、というはなし。リーダーの皆さんには読んでいただきたいいい話だった。下っ端なのになぜ読んだかというと著者 Edgar E. Schein のファンだからです。ただ下っ端には前作 Helping のほうが良いかも。
人為的に仕事や勉強のやる気をだせないかと思い読んだ。著者は Gamification という語をユーザのエンゲージメントを高める手法という広い意味で使っており、要するにそういうテクニックを色々紹介する本。サービス屋さんにはいい本だろうけど、自分自身を欺く目的には大掛かりすぎた。テクニック自体はよく整理されていて感心した。
なお著者は元ネトゲ廃人らしく、時折ゲーマーらしい洞察を感じる。
これは逆に、テクノロジーが人々を虜にしすぎてやばいと警告する本。この文脈ではネトゲもソーシャルメディアも同じ枠に入れられるのだな、と思いながら読んだ。現代版ゲーム脳みたいな話。
ゲーム脳って当時はトンデモな扱いだったけど、ネトゲやスマホ、ソーシャルメディアにメッセージングなどが人々の大きなマインドシェアを占めている昨今はあまり馬鹿もできなくなったなと思う。
人の心を虜にするメディアと広告の関係について、19世紀の新聞広告の誕生やパリの張り紙スパム時代からテレビのリアリティショウや MTV を経て今日のソーシャルメディアまで歴史を紐解く。The Master Switch に負けない濃密な書きっぷりはさすが Tim Wu.
インターネット広告業界の人は特に興味深く読めると思う。自分たちの歴史的位置づけがわかる。
WIRED 編集長 Kevin Kelly による、テクノロジー最高だし不可避だから身を預けてこうな、という話。これがシラフで出せた 2016 年は平和だったね。今読むと能天気すぎる感。ただ正直ちょっとは kool aid がないとテクノロジ産業死んでしまうので、こういう楽観的なのもぼちぼち読んでいきたい。まあ、いい話です。
ここから先は The other side of America 研究。
Poor White などとよばれ先の選挙で一気に注目を集めた demographic, 実は入植当時に労働力として半奴隷的立場でイギリスとかから連れ込まれた貧乏人や犯罪者などが先祖で、その人々が権力者にうまいように使われたり反抗したりしつつ各時代を生き延び今日に至っているのだよ、という歴史をすごい詳しく書いている。
面白かったけど、自分のアメリカ歴史リテラシーがなさすぎて厳しかった。まずは小学校の教科書を読んだほうがよさそう。
アメリカの価値観が綻んでいく現代を、その綻びによって苦い思いをした市井の人々の半生記を通じて覗きみるという趣旨。穀物燃料で一山当てようとした男、民主党議員に憧れ秘書を目指した男など、登場人物はアメリカっぽくて雰囲気はあった。ただ全体的に散文的な構成なのとサブカルチャーを含むアメリカ基礎知識不足で自分にはやや厳しめ。
バークレーの社会学者が南部の価値観を理解するために一年間ルイジアナで密着取材する、という話。タイトルは南部人が昨今感じている疎外感を表したもの。
石油産業に好き放題荒らされているルイジアナの現状のやばさを描きつつ、それでも共和党を支持し続ける住民たちの話を聞く。その矛盾を支える人々のメンタルモデルを理解しようと著者は取材を重ね、さいごに保守層の "deep dream", 内的世界を描写してみせる。
すごくよくかけていた。自分はこうした南部保守層の心理にはより添えないけれど、外国人が(控えめに言って)疎まれる温度感への理解は深まった。うっかり南部に観光旅行とかすることはなかろうな。メシはうまそうだが…
著者の Arlie Russell Hochschild は昔読んだ The Managed Heart も良かったし、自分の中では評価高し。
アメリカの opioid crisis について書いた本。
Pain management という患者本位医療を目指したはずの movement が製薬産業の強欲と噛み合って依存性のある pain killer が人々にばらまかれていく一方、メキシコから真面目でイノベーティブなヘロイン商人が流入して産地直送高品質低価格のヘロインで従来のしょぼい麻薬を駆逐しミドルクラスにまで顧客層を広げ、結果 pain killer 中毒になった罪のない市民がヘロインに手を出すようになる…という展開が fascinating.
本としてはめちゃめちゃ面白かったが事実としてはグロい。自分や家族が知らずにうっかり opioid 系 pain killer を処方されヤク中になったらと思うとだいぶ恐ろしい。ヘルニアとかにすら処方されるケースがあるらしいし。
そしてアメリカは gun だの war だの drag だの人殺し要素が日常的すぎ。飼い慣れされた民族の一人としては、自由だの独立だの言った結果がこれじゃしょうもないな…という気分を禁じ得ない。
経済的に困窮して住居を失った末に RV(キャンピングカー)で暮らす人々の話。多くが60代以上の年寄りで、季節労働で日銭を稼ぎながら有料無料のキャンプ場や Wall Mart の駐車場などを転々として暮らす。オンラインにコミュニティがあったり、砂漠の街で年次オフ会みたいのも開催されているらしい。
季節労働として年末の Amazon の倉庫労働がハイライトされている。Amazon は Camper force と銘打って holiday season に倉庫付近の RV park を借り切り国中から RV 労働者を集めているらしい。そんな年寄りに過酷な肉体労働させるのは酷い話に思えるが、少なくとも賃金未払いとかはないので人気の職場なのだとか。うへえ…
著者はこの RV コミュニティに密着すべく中古の RV を買い、砂漠の集会に参加したり Amazon で働いたりしている。すごい。実際に数人の RVer と親しくなり、その人々の人生が話の軸となる。なので距離のあるドライな読み物ではなく、パーソナルな色が強い。世の中の厳しさに胃が痛むが、描かれる人々のたくましさは良い。
RV, 町中で普通に見かけるし近所にも RV の溜まっている通りがある。あの人たちはなんなのだろうなあと思っていたので、まあまあ謎が解けた。
なお RV の住人はほとんどが白人だという。それは有色人種と違い racist に襲われたりする心配がないからだとか。自分たちは困窮しても RV 暮らしにはなれないのだな。特になりたくはないけれど、意外なところに racism の影を見てしまった。
去年に続き Audible のおかげで炊事などの家事や通勤の時間が読書タイムになり、慌ただしい日常が少し知的に潤った。ただもうちょっとこまめに記録を取らないと中身をすっかり忘れてしまってだめだね。
技術書: Information Theory: A Tutorial Introduction, Learning TensorFlow, Python Machine Learning, Deep Learning. Programming in Haskell, Kotlin in Action. ジム読書がなくなった4月以来激減。やむなしだが悩まし。
暇に負け日本語のインターネットをみたら MeToo の話がいびつな形で盛り上がっていた。あまり詳しく読んでないけれど、この手の話を目にするたび Susan Fowler は凄ったな、と思う。思わず読み直してしまった。
Sexual assault の告発は、どうしても類型的になりがちである。一番多いのは同情を呼ぶ涙ながらの訴え。そうでなければアクティビスト的な怒りの非難。
告発をステレオタイプだからと責めるのは筋違いで、形はどうであれ励まされてよい。責められているのは告発されている側なわけで。とはいえこの構造はやや使い古された面がある。地殻移動を起こす勢いがない。まだ役目を終えていないのに。
Susan Fowler の記事は違う。まず体裁が穏当を装っている。友達がみな Uber どうだったって聞くからブログで答えるよ、と始まり、まなかなかエキサイティングな職場だったよ先に書いたとおり残念なこともあったけどね、と終わる。読み手は文化戦争へのガードを下ろしストーリーに入り込む。
そこで待っている異常な光景。けれど当事者でありながら Susan の視線は淡々としている。感情のノイズに濁されることなく描き出される不条理小説みたいな展開は、滑稽にすら感じられる。革ジャンのエピソードとか、正直ちょっと笑っちゃうじゃん。
この精緻な不条理さは文体だけの力ではない。Susan は Uber にいる間、ずっと正しい形で戦い続けている。繰り替えられる HR との問答。CTO や上司たちの無様な言い訳。戦って踏み込んだからこそ多くが露呈した。
この勇敢さ。クソ会社/上司に当たってしまったら、逃げだしたって誰も文句は言わない。むしろそれが普通。戦いを挑んだらもっと酷い目に遭う。Susan も理不尽な人事考課を受けている。そんなひどい目に遭ったら心を病んだり、闇に堕ちたりすることだってある。同時期に書かれた匿名 Uber 批判の中には、シリコンバレーに嫌気が差し田舎に帰ったと終わるものがあった。
逃げるのも、心を病むのも、この異常な世界では完全に普通のことだ。けれど Susan は戦って生き延びた。しかも怒りに身を任せず、冷たく批判の刃を抜いた。
この完璧な whistleblowing をやり遂げたにも関わらず、あるいはあまりに完璧だったからこそ、 Susan はアクティビストに転向しなかった。ちょこちょことソーシャルメディアをしたり新聞の取材に答えたりしてはいるけれど、基本的には転職先の Stripe で楽しくやっている、ように見える。
多くの告発と異なり、Susan は直接わりやすい consequence を求めなかった。賠償も、経営陣の交代も。だから対価を巡り戦う必要がなかった。これで裁判とかになると、もちろん法廷で争ってもリーズナブルな事件だけれども、告発を個人の問題、金の問題に卑少化してしまうリスクがある。Susan はそうしなかった。かわりに素敵スタートアップの職という足場を確保し、上から切りつけた。
一旦告発者になると、告発者としての一生を過ごす覚悟がいる。大半の告発ガイドにはそう書いてあるし、Susan もインタビューのなかで認めている。でもそんな犠牲を払うのは、なんというか、ちょっと負けてる。悔しい。Susan は踏みとどまり、刃を収め move on した。つまらぬものを切ってしまったとでも言わんばかりに…
端的に言うと Susan はかっこいい。文句なしにかっこいい。機会があったら著作の表紙にサインしてほしいくらいかっこいい。Snowden のように告発者には告発者のかっこよさがあるけれども、Susan は同業者、テック会社員としてかっこいいじゃん。
MeToo 的 sexual assault の告発がこんな完璧である必要はない。それはまったく理不尽な求めだ。一方で Susan は完璧にキメた告発の破壊力を示した。Uber ブランドは地に落ちた。非上場企業の、議決権を握る創業者社長を休職に追い込み、新しい社長を雇わせた。シリコンバレーにセクハラ糾弾の津波を呼び込んだ。
かっこいい。
MeToo はさておき liberal media や Democrats はこのくらいかっこよく完璧な allegation をキメてあのしょうもない大統領をなんとかしてほしいもんだよなあ。玉石混交の弾をランダムに打ち込んでもノイズにしかならない。それがインターネット時代の声について人々が今年学んだことなのではないかしらね。
Susan Fowler は FT の person of the year に選ばれ、NYT のインタビューによると映画化の計画もあるらしい。観るしかない。
The ChangeLog で CNCF の話を聞いた。CNCF, できたときはどうせ形だけの組織なんでしょと斜めに見ていたら割とまじめにやっており、かつうまくいってるらしい。Google のように control freak ぽい会社が Kubernetes といういかにも戦略的なコードをわざわざ第三者に明け渡す。誰が決めたのか知らないけど、よくやったと思う。
ここで年来のファンタジーが頭をもたげる: Chrome も Chromium Foundation になっていたら良かったのになあ。WebKit Foundation でもいい。そしたら Electron とかもみなそこにあつまったろうに。
そうならなかった理由はわかる。なにも動機がない。彼らには巻き込みたい他人というものが特にいなかったろうし、そもそもウェブには標準というものがあり、そっちで協業してる。それに Chrome を始めた人々はもともと Mozilla というよその foundation が持つコードへパッチを書くのに疲れて自分たちのブラウザをはじめた面もあるだろうから、Foundation したくない動機すらある。オープンソースになっているだけでも感謝しないといけない。
その点 k8s の世界には標準化団体なんてないし、実装も色々なクラウド事業者や上のレイヤのアプリなどを巻き込んでいきたいだろうから CNCF のようなものが必要になる…と理解している。
しかしそもそも他人を巻き込みたい気になったのは AWS という支配的プロプリエタリなクラウドがあるからだろう。つまり k8s のオープンさは Amazon のおかげといえる。Jeff Bezos には足を向けて寝られない…というか competition てすばらしい、という話だね。
自分は数ある社内のオープンソースな仕事を全部無視しプロプリエタリなコードで日銭を稼ぐ身分。Foundation がどうとか言える倫理的な足場が微塵もない。自分にとって重要だと思っていた職業的オープンソースが単なるタナボタでしかなかった事実は、情けなく悲しい。この話は白昼夢あるいは白痴の夢でしかない。
Tech なやつは段々と聴かなくなり、大手がふえた。ニッチでおもしろい番組を探す労をかけていない帰結だとおもう。Tech は基本ニッチだから。
以下、今年聞き始めたもののみ。
The Daily. NYT がやっている, たぶんいちばんメジャーなニュース podcast. 平日毎日降ってくる。各 20 分くらい。通勤中に聞いてる。
完全な時事ネタもあれば、NYT の長編取材記事のつまみ食いをする回もある。新聞を購読しているにも関わらず top news に目を通す気合のない昨今、Briefing として重宝している。NYT の左ぶりが嫌いでない人には良いとおもう。
Exponent. Tech pundit の Ben Thompson がブログのおまけでやっている番組. そのブログ Stratechery は名前の通り strategy 色というか PM 色が強すぎ、 execution 信仰の強いプログラマたる自分は好きになれない。でもこの podcast はなぜか好き。最近肩身の狭い西海岸住人としては語り口に現れる暑苦しくも信念のある「イノベーションだろッ」的 arrogance に励まされるのと、 co-host である James Allworth とのバランスがよい。
Reply All. B 級テックジャーナリズム(?). サポート電話詐欺を追いかけてインドに行く話、謎の間違い電話の話などはよかった。最近だとメキシコの政党が Twitter troll を雇って選挙に meddle してる話も。
Planet Money に似てなくもないけど、より下品かつ雑。真に受けきれない陰謀論的面白さがある。なお Planet Money も面白いです。Kzys 氏のレビュー参照。
Revisionist History. Malcolm Gladwell がランダムに一回完結の面白い話を披露する。もう完結しちゃってるけどクオリティの高さが異常。Gladwell, 話がうまい。ぽつぽつバックナンバーを聞いている。
Y Combinator. 講演の録音を流すのが主。たまに有名人が出て来たときだけ聴く。Diane Greene の回は良かった。
あるとき ATP (相変わらずきいてる)でホストの Marco Arment が「人は情報を求めて番組を聞き始まるが、パーソナリティを気に入って聞き続ける」と言っていた。まったくだなと思う。自分が楽しみにしている番組たちも、結局は中の人が好きできいている。純粋に情報をほしいと思ったら Audible で本を聴いたり活字を読んだりするほうが早い。ここ数年で商業的で高品質な番組が増えてきたけれど、肌の合うパーソナリティはかならずしもふんだんではない。
Marco Arment といえば Under The Radar もたまに聞いてるな。Indie iOS app development の番組なので自分にとってはほんとにどうでもいいけれど、Marco ファン活動。
Chiropractor office への通院に Uber を使っている。社長かわったしいいでしょ、ということで。
Express, 安い。POOL が X の 2/3 くらいで、そのまた 2/3 くらい。
客が pickup location までちょっとだけ歩かされるぶん安いという触れ込みだったけど、実際は pooling のアルゴリズムというかパラメタも少し違う気がする。少し遠回りしてでも相乗りしようとする。なのでより時間がかかる傾向。普段ならいいけど、座っている時間が長いほど腰に響くので通院目的には悩ましい。
もっとも安くつかわれる driver からすれば稼働率を上げてもらわないと困るだろう。POOL だと実際には相乗りにならないケースが結構あるけど、Express でそのケースは今のところ一回しかない。
システムを game する driver もいる。カーナビを無視してハイウェイ入口までわざと少し遠回りをし、additional rider が現れるのを待つ。賢い。が、腰が痛い。君にチップは払わん。そのぶん Express で相乗りが発生しなかった気の毒な driver には少し多めに tip しておく。
はーしかし通院は金がかかるし腰は痛いし、近くの chiropractor に鞍替えしたいなあ。長引かないことを期待して通い続けているけれども。まあ、少しは良くなってきましたです。
ヘルニアのため椅子に腰掛けると痛む。座れない。デスクワークができない。ソファもだめ。結果として自宅でまったくラップトップを使えない身分になってしまった。
ブログは電話で書いてる。書けるけど、立ち入った話は厳しそう。思考をドライブできるほど速く書けないから。訓練あるのみかもしれないが…。
以前から考えていた自宅用 standing desk を注文した。届くのは来年だろうなあ。そして自分では組み立てられない予感もある。友達に助けを求めねばなるまい。とんかつでも振る舞おう。
やることないし本でも読むかと一冊買ってみたものの、厳しかった。横になっても立って読んでもハードカバーは重いし、本の形態を問わず横になると眠くなる。
一方電話でインターネットは快適。でもダラダラくだらないニュースをみるかブログを書くくらいしかやることがない、という気分になりがち。おかげで書く速度にも関わらずブログは捗るのだった。
一年以上前にゼロ秒思考という本を読んだ。
この本は、頭に浮かんだことはすぐ書き出せ、そして箇条書きで書けと主張している。
なんでもすぐ書き出せというのは「考えるために書く」に近いものがある。一旦書き出すことで脳の負荷が下がり、考えを前に進められる。
書き出すのは、考えないためでもある。テキスト形式で考え事の snapshot を取って認知的ノイズを捨て、心置きなく先にすすむ。基本的には GTD の人たちがタスクを書き出すのと一緒。ただし中身が TODO である必要はない。
書き出したことの多くは特にそれ以上追求されることなく流れ去っていく。それでよい。Google Photos の全自動 backup が保存やよりわけの悩みをなくしてくれるように、思いつきの書捨ては考え事取捨選択の悩みを減らす。写真と一緒で、頭をかすめるアイデアの大半はゴミだから。
書き出すのは悩まないためでもある。この本は、なぜか対人関係の悩み解決に重きをおいている。対人関係に限らず、悩み事やいら立ちを書き出すのは割と意味がある。多くの場合、思ったより大した悩みではないことに気づいたりするし、なんらかのパターン、バイアスを見出すこともある。自己カウンセリング。認知療法。日記セラピーみたいな。
などなど、色々書き出すのは良い。
箇条書きを勧めているのは、作文のコストを下げるため。文章を考える手間はそれなりにある。箇条書きはそのコストを限りなく下げてくれる。だから考え事をばばっとダンプできる。これは一理あると思う。
著者とちがい、自分はすべてのテキストが箇条書きでいいとは思っていない。説得力やストーリーが求められる文章はある。ただ、それがごく一部なのも事実。大半はたしかに箇条書きで足りる。
なのでババっと箇条書きを書き捨てられる環境を作るのは大事だと思う。ふつうは Evernote でいいだろうけど。
もう一つ、書いたテキストは編集せず新しく書き直すことを勧めている。これも説得された。短いテキストなら過去の残骸にバイアスされず書き直したほうが整理されるよね。
なお著者はこの他にも謎のこだわりを色々持っているが、そのへんは割とどうでもよかったし説得もされてない。あと続編的なのも書いてるけどそれはなぞのランダムライフハック詰め合わせ本で、読むだけ無駄だった。考えるために書く方法論をもっと追求してくれればよかったのに、残念。
考えるために書く、という前回の話の補足として書いてみたけど、あまり補足できてない気もする。
しいていうなら、こうしてダンプされたアイデアのうち興味深いものを書き直してブログにすると良いよ、とかかな。
Blog の話を書いたついでに。
Social media 全盛の時代にプログラマがブログを書く意味はあるのだろうか。もっというと、それは職業的な役に立つのか。そして役に立てたいならどういう前提で書くのが良いのだろうか。
この手の議論では、なんでも知見を書いておくと検索経由で誰かの役に立つかもしれないという話がよくある。それは一理あるが、人の視線を気にするのは slippery slope だとも思う。
まずひと目を気にしだすと、たとえば social media で buzz りたい、みたいな誘惑に弱くなる。Social media での人気は内容の有用性とは必ずしも比例しない。人目を求めると程度の差はあれ延焼性を高めたり clickbaity になりがち。そういう記事ばかり書いている世の中の冴えない "blogger" たちも、当人らが特別ダメな人間だというよりメディアの構造があの人たちを駄目にしてしまったと個人的には思っている。仕事でもないのにプログラマがそんな構造的リスクに足を突っ込む必要はない。
もう一つ、人の視線を気にすると自分を実際以上の良いプログラマに見せたい誘惑もうまれる。これは炎上の重力とは違うけれど humbleness を欠く。ハッタリ志向になるというか。(そして自分はむかし学生の頃「ハッタリ志向プログラミング」という記事を書いていたのを思い出した。やばい。)
なの人目の誘惑からは距離を置き、自分の興味や、可能な範囲で仕事の発見、思ったことなどを、ほそぼそと書き続けるのが良い気がする。人気は出ないかもしれないけれど、長くやるほど自分の(職業的)パーソナリティがにじみ出ていくはず。
エラくなる、営業活動など、職業上の要請で歓心的、権威的振る舞いを迫られることもあるっぽい。そういう立場の人は仕方ないけど、近づかないで済むならそのほうがよい。
Blog に期待される職業的な利得のひとつに self branding がある。つまり blog は新しい職業的な関係を持つ際に due diligence の材料になる。会社員にとって、これは要するに転職するとき相手に読まれるということ。あるいは人探しをしている人の目に止まるということ。
Self-branding のために売名やハッタリは必要ないのか。ないと思いたい。
多くの企業は、かならずしもすごいプログラマを求めていない。凄腕に越したことはないけれど、そう簡単にスーパースターを雇えるとは思ってない。一方ですごくダメなプログラマ/会社員はなんとしても避けたいと思っている。つまり雇用のための self branding では、すごくダメでないことがはっきり示せればとりあえず大丈夫と言える。
求人/求職は不完全情報のゲームで、お互いに相手の情報が足りてない。だから雇う側は安全のため期待値のマージンをとって採用する。つまり相手の素性がわからいぶん必要以上に高いバーをセットしている。情報を開示すればするほど相手は安心し、マージンは小さくなる。
長く続ける燃えてないブログは、個人の情報開示として優れている。GitHub にコードを置くのも同じ理由で意味がある。ただ2つは開示するものが違う。GitHub はプログラミング能力を示し、Blog は(プログラマとしての)人となりを示す。雇う側にとってはどっちも大事。
人となりを伝える意義は雇用にかぎらず、オンラインで知り合いを作るのも助けてくれる。ソーシャルメディアやオフラインで誰かとの接点がうまれたとき、ブログはその繋がりを強くしてくれる。雇用よりこっちの方が大切な人は多いだろう。
人となりを伝えるにあたり、関心/PV への誘惑は悪い方向に働く。オンラインで人目を集める発言パターンは多くが露悪的だし、そうでなくてもステレオタイプの力に負けパーソナリティを隠してしまう。(プログラマたちが書く退職エントリの紋切り型ぶりを見よ。)
ところで求職にせよ社交にせよ、ブログのかわりにソーシャルメディアではだめなのか。大半の人は併用しているだろう。ブログでしかできないことも、ソーシャルメディアでしけできないこともあるから両方やるのが良いのだろうね。そういって多くの人々は結局ブログを書かなくなるのだけれど…。
ブログのもう一つの側面である、考える手段としての文章書き。個人的には割と重く見ている: 物事の理解を助けるには、そのアイデアや思考過程を書き出すとよい。
考え事のテキストはいつも完成した文章である必要はなく、箇条書きとかでも良い。ただし他人に伝える必要のあるアイデアは、箇条書き以上の整合性があると望ましい。つまりそれなりの文章にしておくとよい。
他人に伝えたいアイデアとは何か。たとえば新しいライブラリを導入したい。それはどこがいいのか。チームのプロセスを変えたい。なぜか、どう変えたいのか。あるいはもっとカジュアルに、なにか面白いものを見つけた。どう面白いのか。など。
こういうコミュニケーションを準備なしにうまくできるのは、一部の頭脳明晰な人だけ。準備しないと、ふつうはしどろもどろのしらけた話になる。講演の原稿と同じ。
そうしたアイデア伝達の準備としてブログを書くのは悪くない。自分が読んで腑に落ちる形で考えを言語化できたなら、人と話す準備は整う。
あるアイデアに canonical なテキスト(たとえば教科書、ウェブサイト)があるからといって、自分の言葉をひっこめる必要はない。語り手や聞き手にあわせた言葉があるはずだから。
ここでも関心/PVの意識は悪い方に働く。誰かがすで書いた話を書き直しても仕方ない、むしろパクリ扱いされる…とか。身近な対話の下地づくりにとって、そういう意識は邪魔にしかならない。
読者を意識するのはいい。ただしその読者は、自分がアイデアを伝えたい相手、たとえばチームメイトや友人。ランダムなウェブの住人に響くかどうかは副次的なことだ。
多くの読者に読まれようとがんばって文章を書くのは、別にそれはそれで良いと思う。でも、多くの読者を持つ「よい blogger」であるために必要な努力は、良いプログラマであるための頑張りとは関係ない。
良いプログラマが面白い文章を書くことはある。でもその文章の面白さはプログラマとしての実力のおこぼれであって、逆ではないよね。
このブログは以上の方針をどれだけ守っているか。道半ばというところ。自分は関心経済に魂の結構な割合を売り渡してしまった。買い戻すには時間がかかる。
そして関心経済から完全に身を引くべきかというと、それも違う。少なくともインターネットの上にとどまりたいなら。議決権は自分の手元に残しておこうね(それには自覚的なふるまいが必要で、そのあり方の一つを提案したい)という話です。
より根本的に、何か言いたいという個人の欲求をみたしてくれるメディアとしての blog というのもあり、それはそれで自分は好きです。
椎間板ヘルニアになってしまった。
色々なことができない。結果、ただでさえ風邪気味のゆこっぷ(奥さん)に家事のロードが偏ってしまう。辛い。運動できないせいで脳内麻薬が欠乏気味なのもやや辛い。
座ると痛むので基本ゴロゴロするしかない。合間合間に患部周辺を冷やしたりストレッチしたりしつつ、あとは立って軽労働。炊事とかはなんとかできる。しかしもう少し回復しないと仕事はできなそう。無理に出社して痛みがながびいても本末転倒だし。
幸い手術が必要なほど重症ではないので、カイロプラクティックに通っている。
診断された直後はショックで絶望しかけた。ヘルニア、なんとなく不治の病なイメージがあったのだよね。糖尿病みたいな。そういう生活習慣病的な面がないではないが、調べた範囲の印象ではどっちかというと骨折にちかい感じがする。
不治の病のイメージは、たぶん自分の高校時代の部活から来ている。当時所属していたハンドボール部で、チームメイトがヘルニアを理由に引退したのだった。日常生活には支障ないんですけどねえと恨めしそうな顔をしていた。治らないんだ…ヘルニアへの恐怖が自分に芽生えた瞬間。
いま振り返ると、そりゃハンドボールはやめといた方がいいだろ。骨折と違って、回復後に患部が丈夫になったりはしないからね。衝撃の多いスポーツ。治ったあとまた痛めたらやじゃん。
今の自分の私生活はハンドボールほど激しくないけれど、回復したら再発予防の措置はいろいろしたい所存。生活習慣病としての面も無視はできないから。
まあしばらくは鈍痛と心苦しさを堪えながらゴロゴロしつつ回復を待ちます。
via Distributed Systems 3rd edition (2017) | DISTRIBUTED-SYSTEMS.NET
Tanenbaum の distributed systems の三版がいつの間にか出ており、しかも無料PDFダウンロードが提供されていた。えらい。しかし目次を見ると若干古臭さを感じてしまうなあ。Vector Clock とか Gossip protocol とかこの本で読んだので意味のある本には違いないんだろうけれど、ここからどうすれば Amazon のクラウドみたいな世界にたどり着けるのかさっぱりわからない。しかし distributed systems の読者が知りたいのはまさにそれなのではないか。
最近流れたきた CS349D Cloud Computing Technology, Autumn 2017 という Stanford のシラバスからリンクされている論文を順番に読んでいけば多少はなにかわかるのかねえ・・・。
プログラマと英語 1 というのを去年書いたのを思い出した。これは 2 です。プログラマは英語で blog を書くべきか。
自分は過去に何度か断続的に書いたことがあるが、最近は「多くの人にとってはあんまし意味ない」という結論になった。特に日本語で blog を書くような感じでは書けないね。
Blog を書くにあたって、いくつかの期待があるとおもう。
まず昔ながらの、ソーシャルメディアとしての blog, 個人的な話。多くの日本人は交友関係の大半が日本人である。となると個人的な話を英語でかいても読み手には迷惑なだけだし、読まれないことも多い。だから個人的なことを英語で blog に書くのはあまり嬉しさがない。
ただしあまり読まれたくないが口にせずにはいられない話題を書くのには良い。言語バリアの力で無駄にゴシップ化しないから安心。
テクニカルな話題、professional portfolio の一環としての blog. 気の利いた記事を書いて一目置かれたい。これは個人差があるが、自分のようなボンクラにとっては徒労だなと思う。何かを解説し、良い読み物を書くには高い自然言語能力が求められる。つまり英語が堪能でないといけない。留学してたみたいな例外をのぞくと、これに該当する日本人はほとんどいない。それなりに興味深い技術を扱っても, 相対的には平凡な内容をネイティブが面白おかしく書いたやつの方が attention economy における価値が高い。すごく時間をかけれて polish すればある程度はマシになるかもしれないけれど、ぜんぜん割に合わないし throughput でも戦えない。なので我々 non-native が blog を通じて存在感を獲得するのはすごく筋が悪いと思う。文章の品質、読まれたいなら割と大事よ。じっさい。
あと日本語圏ではよくある技術記事ジャンルであるところの英語圏の流行りを日本語で紹介する系も英語圏だとつかえないのも忘れずに。まあ英語でも他所の記事を引用してコメントするだけのblog 実は割とあるけれども、書き手の career には寄与してないと思う。
英語で書く技術記事が価値を持てる例外は、プログラマとしてすでにあげた成果を世に知らしめたい時。たとえば自作のオープンソースライブラリを紹介したいとか。製品開発での技術的達成を自慢したいとか。自分のコードというキラー・コンテンツがあるなら fluency gap は埋められることもある。もっといえば、そうした文章はコードの付属品である。
更に別の言い方をすれば、プログラマという profession を通じ英語圏で存在感を持ちたいならコードを中心にしたほうが良い。というのは別にかっこつけマッチョ発言ではなく、自然言語の成果で non-native が native と渡り合うのは絶望的に大変というだけ。どんなボンクラプログラマであっても、英語でがんばるよりコードで頑張る方がマシ。
そういってコードでがんばっているとやがて議論などで自然言語力が欲しくわけだけれど、それはまた別の話。
英語で書く blog への期待。英語の練習。
自分がやっているのはこれ。だけれども、 blog でやらなくてもよいのではないかなあ。誰も読んでくれないからやる気も出ないし、blog という自分のアイデンティティに下手な英文が結びついてしまうし。
個人的には Yelp や Amazon などのレビューを書くのは割と楽しいと思う。自分も一時期やっていた。まずレビューはなんとなく読まれる気がする(錯覚かもしれないが)。そして自分の professional なアイデンティティと結びつかない気楽さがある。メシのウマイマズイを無責任なかんじで雑に書くの、なかなか楽しいよ。特に東京に住んでる人は都内の飯屋に英語の Yelp レビューを書いておくと観光客は重宝してくれると思う。無駄に日本通ぶってみるとか、いろいろ夢が広がりませんか。ばかっぽいですか。
自分はもう誰かが読む期待に頼らなくてもある程度は文書を書くことができるし、日本語のブログに英語パートを埋没させているおかげで同僚や recruiter など native 想定読者にアホな文書を読まれる心配もない。なのでこの blog で英文練習をしている。けれどもまあ、相対的にヒマとやる気がある人は blog 以外の活躍の場を検討してみることをおすすめします。
ここ何年間か英語 blogging を定着させようと試行錯誤したけれど、結局定着せずこのような結論になった。プログラマとしての成果がない自分は、自分の想定している英語圏の audience に語ることがない。日本語で blog を書く時、自分はプログラマとしての成果ではなく日本語能力に依存してたのだなあと改めて思う。文章を書くのは好きなので、この事実に特にがっかりはしない。でも日本語の blog 書きを通じて抱いた期待を無意識に英語にも適用しようとしていたのも事実で、それはよくなかったと思っている。
日本語圏プログラマへの good news として、最近は GitHub を通じ blog のような自然言語に強くバイアスされたメディアを頼らずオンラインでの存在感を持てるようになった。GitHub で活躍している日本語圏の人々をみると、羨ましさと嬉しさに息が漏れる。
kzys がなんか書いていたのに便乗して記録しておく。
今年のあたま、発音をなんとかしたいなと思いなぜかアプリを作った(が出したっきりほっといたら one star rating になってしまった。すまぬ・・・buggy だけど fake じゃないよ・・・) がその後色々立て込んで何も出来ず、それでも6月くらいから二ヶ月くらいこのアプリの dogfooding をかねて American Accent Training という本をやっていた。半分くらいで挫折。
自分は以前 Mastering the American Accent もやったことがあり(これはいちおう最後まで行った気がする)、ESL 向けアクセント矯正本は二冊目。
対照的な二冊ではあれど、どちらも悪い本ではなかった。AAT に挫折したのは自分の忙しさとかの問題で、本の内容がどうこうではない。
AAT はマクロな発音 (文全体の intonation や、どこに stress を置くかなど) からはじまり、段々とミクロな発音 (個々の音をどう出すか) に進んでいく。MAA は逆にミクロからマクロに進む。AAT は精神論とか説教が多い。MAA は相対的にドライ。AAT の説教はウザいといえばウザいが、発音コンプレクスのある身としては正座して聞いてしまうかんじでもあった。MAA はコンテンツがドライなぶん反復練習には向いている。どちらの本も本文がほぼ全て音声化されているので、説教とかが挟まる AAT はそれがちょっと邪魔。
あと AAT はMAA よりアメリカっぽさに重点を置いている気がする。
発音を「勉強する」すなわちどういうルールがあるのかの知識を得る、理解するのは英語学習者はやって良い気がする。発音がよくなるかはさておき、リスニングの助けになるから。むかし dictation の教材で「何度も聴けばぜんぶの単語が聞こえるようになる」とか主張してたやつを見た記憶があるけれど、そんなわけねー。消える音、歪む音などが沢山あるので、そういうルールを知らずにリスニングや dictation の教材をやるのは苦行だったとわかる。
苦行も繰り返していると脳が勝手に補正してなんとなくリスニングできるようになるのだけれど、この自動補正フェーズに入ってしまうと発音を勉強するのが辛い。自動補正されるせいで本来の音が聞こえなくなってしまうから。(と AAT は主張しており、自分はまったくだなと説得された。)DNN をトレーニングして精度は上がったけどモデルが blackbox みたいなかんじ。正しく発音することを見据えるなら、発音のルールは早めに勉強しておくほうがよい気がした。
で、発音がよくなったかというと、いまのところぜんぜんだめ。自分が根本的に発音をこじらせてしまったせいなのか、単に訓練不足なのか、アクセントを自習するというアイデアがよくないのかはわからない。
訓練(勉強ではなく)不足はあると思う。発音教材をやったあとしばらくは中身が頭と口に残っているけれど、どんどん忘れてしまう。一日あたりの訓練時間も短いし、二、三ヶ月くらいじゃうまくならないのだろう。American accent を internalize できるまでは日常に訓練を残しておく方がよいよなあ・・・と思いつつできてない。気休めとして最近は通勤時に聞いている podcast をできる範囲でシャドーイングしている。これも忘れがちだけど。
自分の音声を聞くのは意味があった。というか音声を聞かずに発音練習しても発音がよくなりようがない。わかってはいたけれど、先のアプリを作るまでは面倒すぎてやっていなかった。ただアプリがあっても自分の声を聞くのはかったるい。正解音声を聞き、発音し、それを聞き返す、やりなおす、を繰り返していると教材が全然前に進まない。やる気を保つのが難しい。
あと聞き直せたところで発音が合ってるのかは案外わからない。正解ナレーターとの声の違いなのか、まずいのか、許容範囲なのか。全然違う場合を別とすると判断するのがつらい。あと間違っていても正解に近づける方法がよくわからい。など辛いことが多い。
ただ録音すると明らかにダメな時(有声音が無声音になっている、聞こえるべき音が聞こえないなど)はわかるし、明らかにダメなことは多いので、それを刈り取るだけでも意味はありそう。
というかんじで希望は感じつつも現状とくに発音はよくなってない。リスニングへの理解は深まった。この先発音をがんばるかは不明。Fluency など他の課題も多いため。
そんな説得力のない身として AAT と MAA のどちらを推薦するかというと、どっちでもいいのではないかな。一冊は途中で飽きて挫け、しばらくして気分が持ち直したらもう一方をやってみる、という風に候補が二冊あると安心ですよ。日本に帰るたびに本屋で日本人向けチューニングされた発音本がないものかとさがすけど、なぜかこのジャンルだけはカルトっぽいのが多くて全滅に見える。不思議。AAT も MAA も教えている内容はまあまあ同じなのだあから、このへんから適当にぱくって出版すればいいと思うのだが。日本語の本同士はぱくりあってるくせにさ・・・。
まあ八つ当たりです。はい。
その他瑣末なハック. 自作アプリ以外に Cloud Player という Dropbox なり Google Drive なりにあるファイルの再生に特化した音声プレイヤを使った。特別良いアプリというわけではないけれど、音楽を再生するプレイヤと教材プレイヤは分けておくと良い。音楽のシャッフル再生中に突然英語教材が混ざったりしなくなるので。
典型的な西海岸 tech people は概ねリベラル(left)だが、一つ例外があると言われている。それは regulation に対する態度である。つまり innovation を推し進めるには regulation はない方が良いという態度。実際インターネット上のサービスというは概して regulation がゆるい世界で運営されていて、そのおかげで無茶が出来た面はあると思う。
おかげでいざ internet services には何らかの regulation が必要という世論が高まった時、基本的にお友達がみな左寄りなせいでいまいち擁護してもらえない。つまり、いやいやそんなことしたら innovation がとまっちゃうでしょもっと market dynamics を信じてあげようよ、などと助け舟を出してくれる人がいない。なぜならそういう考えの人は普段 tech liberals を敵視している right な人々だから。
そんな目で見る Net Neutrality の議論はすごいねじれていて面白い。Net Neutrality の法案というのは要するに regulation である。Regulation はよくないという tech people がなぜか Net Neutrality についてだけは regulation の肩を持っている。(なお Net Neutrality という語を発明したとされる Tim Wu は、最新の著作である The Attention Merchant を読むかぎり tech companies に対する regulation には前向きだと思う。そして逆に tech pundits の中にも repeal された net neutrality regulation に反対する人もいる。なので自分のこの議論は割と雑な話ではある。)
Liberal but Anti-Regulation but Pro-Net Neutrality という stereotypical な tech people view は、そんなかんじで割とねじれている。まあ liberals が全ての regulation の肩を持つ必要もなければ conservatives が全ての regulation に楯突く言われもないので別にねじれているから悪いということはないのだけれど、power dynamics という点では不利に思える。
Tim Wu にせよ Ajit Pai にせよ、こうした舵取りや運動を先導する人々はそれなりに一貫した洞察や意見を持っていると思う。だからそれほどねじれてはいない。一方で上に書いたような stereotypical techie 的なねじれた態度はどうして生まれるのだろうか。そんな tech mob の一人として考えてみると... 究極的には自分たちに都合の悪いものはイヤということなのだろうなあ。そして Comcast や AT&T のような "土管屋" は「自分たち」にカウントしていない。これはこれで一つの態度だとは思うけれど、そんな tribalism に従っていてたらスタート地点の異なる人々と合意に至ることはない気がする。
自分は根が communist なので、一貫性という点から tech companies も net neutrality も何らかの形で規制されるべきなのだろうなと思っている。しょうじき政府が tech companies を妥当な形で規制できるとはまったく思わないし、その結果 innovation はいくらか(もしかしたらたくさん)損なわれてしまうだろう。勤務先も傾くかもしれない。でもそれが自分と概ねの意見を共にする人々すなわち liberals が望むことなら仕方ないのではないか。なんにしろただ regulation するなと跳ねつけるのではなく, こんな regulation ならアリみたいな議論をする方が現実的に思える。
規制するなと表立って叫ぶ tech companies (BigCo.) の representative というのはさすがにあまり目にしない。みっともないし説得力もないとわかっているのだろう。
ベイエリアに住むイノベーションや独立自治大好き系の人々の中には、キリスト教を信じておらず銃も持ってない以外はだいたい conservative みたいな人は案外多い印象がある。というかよその国から来たらキリスト教なんて信じてないだろうし銃に思い入れもない、一方でたとえば日本土着の communism はうっとおしくて嫌い、みたいな人っていそうじゃん?これはすごく Silicon Valley ぽい思想だと思う一方、左右断絶しまくりな昨今のアメリカではなかなか孤立無縁な谷間の住人という感じもする。そのくらいで挫けるような人々ではないのだろうけれど。
Thanksgiving 2日前くらいに子供が胃腸炎になり、嘔吐を通じ我々両親にも感染し、2日有給ののち Thanksgiving の連休は寝て過ごした。そのあと回復に向かうも自分は諸事情により回復しそびりれて風邪を引き先週一日有給。とおもったらそれがゆこっぷ(おくさん)に伝染り、更に子供も調子を崩して気管支炎になってしまった。気管支炎、胃腸炎より辛そうできびしい。本日有給二日目で面倒をみているところ。
子供の病気で仕事を休まないといけないのは、厳しい。まあ休めないのはもっと厳しいのだろうけれども、今年にはいってぐっと有給消化のペースが増え、病休も使いきった。病気のほか daycare の休業もぜんぶで 5 週間くらいあり、それをぜんぶ休んでると有給が足りない。まあ daycare の休みは注意深く代打を探せば金の力で解決できるのだけれども、病気はどうにもならない。
しかも一定程度意志の力で介入できる自分の体調と違い、子供の病気はかなりランダム(+季節バイアス)で発生する。仕事が立て込んでいるとか関係ない。今週はチームが hackathon week で、自分も次のプロジェクトで使えそうな API を使って実験プロジェクトを書いていた。が、検証が終わる前に頓挫。製品本体の締め切り前じゃないだけよかったけれど、出遅れ感は否めない。
一方のゆこっぷは有給が尽きた上に締切前のため、苦虫を噛んだような顔をしながら仕事にでかけていった。ウェブでみつけた Vogue の記事のリンクをチャットで送りつつ、病気の子供のそばにいてやれるというのはある種の privilege だと思い直す。クビになるまではせいぜい活用させてもらおう。
なにはさておき有給の在庫が心配なこの頃。
上司との会話により勤務先は unlimited sick leave policy であることが判明した!まじか。7 年いたけど気づかなかったとは、健康だったのだなあ。
休暇登録ツール上には病欠が3日分使えると表示されてきたのだが、あれは法制上の飾りだったらしい…
次に読む本を探すべく Amazon.com をうろうろしていたのだけれど、技術書は少し Amazon で探しにくくなった気がする。電子書籍重視な新興出版社の本は Amazon に無い・・・わけではないにせよ、O'Reilly とかと比べいまいちレビューが伸びない傾向を感じる。具体的には PragPub, Manning, No Starch Press あたり. Packt も新興のはずだけど、なぜか割とレビューついてるね。
自分は PragPub や Manning からよく本を買うのでややバイアスがあるかもしれないけれど、彼らの出版社の本を買うときってだいたい promotion mail 経由なのだよな。しかも Beta/MEAP として最終版ができる前に買う。こういう相対的に熱心な読者は、結果として Amazon では買わずレビューも残さないのだった。技術書の中でも要素技術解説系のやつはなるべく早く欲しい事が多いので、ちょっとアラがあろうが章が落ちてようが Beta / MEAP で買うのは割に合う。
これは新興出版社的には狙い通りのいい話だろうけれど、Amazon ユーザ的には嬉しくない。なぜかというと review や recommendation を頼りにくくなってしまうから。一方で要素技術解説系の本は著者と目次である程度は出来が予想できる上に新しいテクノロジの本は選択肢もさほど多くないから、review/recommendation への依存度はそれほど高くない。ニッチならではの現象と言える。
要素技術解説「でない」技術書はどうかというとやはり何らかの review は欲しくて Amazon.com は欠かせない。Blog の衰退に伴い Amazon 以外の場所でレビューを探すのはとても難しくなってしまったし。そのせいか要素技術解説以外も多く扱っている PragPub なんかはおもったほど脱 Amazon してない感じがする。自分は Amazon でレビューを読んで PragPub サイトで買ったりするんだけれど、まあ Amazon で買えばいいよね。ふつう。
一方で要素技術解説に特化した Manning の本だと、自分はもう Amazon 経由でなくていい。MEAP の本はそもそも Amazon にないし。微妙にニッチだったり新しかったりするテクノロジはどのみちレビューが乏しい上に Manning と O'Reilly しか選択肢がなかったりするので、著者略歴と目次を比べてえいっと買うしかない。
自分は O'Reilly 世代なので Manning の "In Action" シリーズは "Definitive Guide" とかに比べなんとなく格下に感じてしまうけれど、実際のところまったくそんなことがない。 Kotlin in Action にしろ Deep Learning with Python (これは In Action じゃないか) にしろ第一人者というか中の人が書いている。O'Reilly の Kotlin 資料はビデオしかない。出て来るのはいちおう第一人者だけれど・・・。そして Keras の本はない。
もう要素技術解説本を探すなら Manning の方がよくね? ... と言えるほど圧勝ではなくて、たとえば Rust の本は O'Reilly しかない。とはいえ以前の鉄板さは感じられない。しかも最近のオンライン書籍販売撤退に伴い, subscription なしに beta や PDF (数式!) が読めなくなってしまった。O'Reilly の Safari にも Manning の本があるけれど, MEAP はない。(そして Addition Wesley の "The Go Programming Language" なら InformIT から PDF/epub が買える! まさか O'Reilly より Addison Wesley の方がマシと思う日が来ようとは...)
と O'Reilly への愚痴はさておき, インディー出版社の登場にあわせここ十年くらいで技術書出版の勢力図は変わったなあと思うのだった。
An elephant in the room として最近はオンライン資料の品質が高いことも多いのでそもそも本いらなくね、という人も多そうではある。でもおっさんはあちこち読み歩くの疲れるから金払ってでもまっすぐオフラインで読みたいのだよ。
「なぜアニメには妙に電線/電信柱が多いのか」というどうでもいい記事のスレの HN top comment が "Short Answer: Anno" で、エヴァンゲリオンで電柱や線路をしつこく描いたのが始まりだよと主張しており、しかもコメ主は当人にインタビューした経験があるのだった。そしてスレでは「いやいやあしたのジョーのほうが古いよ」とかどうでもいいアニメトリビア披露合戦がはじまっている。ウケル。そしてどうでもいい。
画像はリンク先元記事より又引用。
Bob Martin の Clean Architecture を読んでいたのだが、あまりに価値観が違いすぎる上にその主張の説得力がなさすぎかつすごいエラそうな文章にムカつきが限度に達してしまい、半分くらいで脱落。後半もパラパラ眺めたけど同程度にむかつくかんじだったので自分向けの本ではなかったらしい。
Architecture というのはプログラマの世界ではだいぶ強い言葉で、Architecture だの Architect だのを名乗るなら語られるべきことは色々ある。でもこの本は基本的に依存関係を整理して testable にする話しかしない。Bob Martin はつまるところ SOLID の人なのでそういう話になるのは仕方ないと言えなくもないけれど、そんなら Architecture とか大層な語を使って新刊を書いたりせず昔書いた本を改定しときゃいいともうのだよな。
色々ムカつくところはあるのだが、まず昔話が多い。2017 年にテープの話とか初期の UNIX の話とかを引き合いに出して誰かを説得しようとすんな!昔話から説教に入るとかマジ老害にもほどがある。そしてデータベースは detail, フレームワークは detail, UI は detail, そしてアーキテクチャは detail 無しで議論して細部はあとで決めればいい、とか今時なにいってんだとしか言いようがない。否応無しにフレームワークやクラウドと心中するこの時代、心中したくないなら明示的に心中しないと決断してその agnostics のためのコストを議論しなければいけない。UI にいたってはもうおまえは WebView で Responsive Design でもしてろとしか言いようがない。
読んででここまでうんざりする本は久しぶり。こいつのせいで読書の進みが止まってしまった。真面目に中身を紹介する気になれない(通読もしてないし)なので、真面目な critical review を探してる人は Amazon.com のコレとかを読むと良いでしょう。
自分はオンラインにある Bob Martin の記事を読み、この人とは反りが合わないと薄々感じていた。でも Clean Code(r) なんかはよく必読書に上がってくるし自分も SOLID などを扱う初期の著作にはお世話になったので、食わず嫌いはせず最新作を読んであげようと思ったのだった。でもガチで老害だったわ・・・。老害という単語は ageism なので普段は使いたくないんだけれど、あまりに絵に描いたような駄目っぷりで罵りたくもなってしまうよ。
ただまあ、世の中には反りの合わない人もいるという話なのだろうな。こういうやり方を突き詰めていくことに意味のあるジャンルもあるのでしょう。Piece of mind のためもう Bob Martin には近づかないようにします。
副次的発見として同じ ex-ThoughtWorks 勢でも相対的に自分はまだ Gregor とは気があうと思った。"The Architect Elevator — Visiting the upper floors" とかエラそうではあるけど時代精神を感じるじゃん。
自分のキャリアとかを考える時期は終わって、自分は子のために生きてるのだなと感じる瞬間がある。たとえば。
ある晩、奥さんの勤務先主催の holiday party に子を連れて出かけた帰路の車内、いつもの就寝時間過ぎまで起こされぐずっていた子が静かになり、やっと寝たかと顔を覗き込む。窓から街灯が差し込み、カーシートの上で静かに宙を見つめている子の顔が浮かび上がる。その表情はぎょっとするほど大人びている。ああ。
この子の前には無限にたくさんの可能性が広がっていて、自分の前には可能性の搾りかすだけがあって、それならこの無限の可能性から子が素晴らしい何かを選び取れるよう手を貸す方が圧倒的に妥当じゃん。諦めでも熱狂でもなく、すべての謎が解けたように、ただ腑に落ちる。
この感覚は白昼夢として過ぎ去っていく。
けれどそのあと、いつものように自分の仕事やプログラマとしての先行きを思い悩むとき、自分の中にある深刻さや熱意の前に夢のベールが覆い被さる。まあ細かいことはどうあれなんとかがんばって金稼ぐしかないよな。そんな気分が頭をよぎる。
なんとかがんばって金を稼ぎ続けるには結局自分のキャリアを前にすすめるほかない。だからこの白昼夢が何かを大きく左右することはない。でも背後にある reasoning が、いつの間にか書き換わっているように感じる。その論拠は言語化できない。けれど腑に落ちた感触が消え去ることもない。
Adds initial, experimental support for generating Android Parcelable implementations using the @Parcelize annotation
via Kotlin 1.1.4 is out | Kotlin Blog
いいじゃん。Kotlin なかなか素晴らしいなあ。
気がつくと念願のキーボード・ショートカットが実装されている!!!Evernote 代替品にまた一歩近づいた、かもしれない。ウェブは相変わらず全然ショートカットないけれど、しばらく使ってみるかなあ。
そして Mac 版は Electron への移行はキャンセルし Native でがんばることにしたとある。最近まともにネイティブのアプリを書いてもらえているデスクトップ OS は Mac だけな気がする。まず iPhone 版をだし、Android でだし、次のステップを Web に行くか Mac に行くか、みたいなパターン。
そういえば Evernote の Windows 版は昔ながらの Win32 アプリといった風情で時代を感じる...とおもったらそれは数年前までの話で、今は Windows 10 ネイティブになってるらしい。えらいね。
二ヶ月くらい前から家族用に Highrise (Free Plan) を使い始めた。
主な用途のひとつは、コクヨ おつきあいノート みたいなもの(こんなものがあったのか!)。要するに親戚や知り合いに何をもらった、あげたなどを記録しておく。もらった・あげたの記録も義理人情の観点で大事といえば大事なのだけれど、そもそも自分はゆこっぷ(おくさん)の親戚や友達の名前とかを全然覚えられない問題があったので、それを記録しておけるのが助かる。Contact List に timeline がついたようなものだと思えばよい。
人付き合いで自分が抱えているもう一つの問題は、人から聞いた話を覚えていないこと。だから聞いた話のうち重要そうなもの(たとえば: 子供が生まれた、その子供の名前、転職したなど) を記録しておくのがもう一つの使いみち。
こういう情報をまったく忘れない人もいるけれど、自分のように付き合いの悪いコミュ障は道具に頼りたい。特にゆこっぷの血縁者や知り合いは自分の直接の関心事ではないせいか、まったく記憶に残らずいつも心苦しかった。Highrise のおかげでだいぶ心的負担が減った。記憶に残らないなら記録に残せ。
入力の手間はある。配偶者の協力が得られないと厳しい気がする。Upfront に大きなコストをかけないよう、ソーシャルグラフのうち実際に interaction のあった相手だけを記録することにしている。つまりアドレス帳のコピーはしない。
自分たちは普段はあまり social な interaction が多くないので記帳の手間は大したことないけれど、普段からたくさんの人に会ったり色々な会合に顔を出したりしている人は大変かもしれない。一方でそういう人ほど CRM の需要はありそうだが。まあ世の中 CRM が脳に内蔵されていてたくさんの人間関係を苦もなく manage できるひとっているよね。
Highrise はこの目的に最適なツールだろうか。わからない。紙の台帳よりいいのは確かだとして、世の中には CRM が山ほどある。自分は他に Monica を試した。Monica は営業やサポートではなく個人の人間関係の管理に焦点があり、この目的には向いている。ただ自分が試した時点では基本的な機能がだいぶ足りていなかったので諦めた。ただしその後ちまちま機能は増えてるっぽい。他の CRM は多くが営業活動支援に特化しすぎていて、家族のおつきあい帳には向いていないように見えた。ただ試してみたら案外いけるかもしれない。
Highrise の free plan は 250 contacts が上限。その上限に達したらどうするか、は考えていない。まあ上限に達するくらいマメに使えていたなら金を払っていい気もしている。やや高いけど。
どの道具を使うかはさておき、CRM でつきあいを管理するのは結婚してすぐやっておけばよかったと思った。様々な awkwardness や embarrassment を回避できたに違いない。家事の mental overhead をテクノロジで乗り切れるとよい。
ここ二ヶ月くらい Feedbin を使っている。Indie Web を応援してやるかという気持ちと、ニュースサイト以外の情報流入経路もほしいと思ったため。キラー機能としてメールベースの newsletter を購読できる。自分は inbox の汚染がいやで一旦 newsletter 類をぜんぶ unsub したのだけれど、Feed reader で読めると inbox 汚染の問題はなくなるので良い。モバイルは弱い、が、スマホの暇つぶしには事足りているので特に Feedbin を使いたいとも思わないのだった。
暇つぶしに事足りているという点でいうと、そもそも Blog とか Newsletter とかを読む暇あるのか。まあ、割と無い。寝る前とかにバーっと既読にする感じで、文章はそんなに読まないし、リンク集的 newsletter のリンク先を読むこともほとんどない。虚しいが、フィードの消化とはそういうものだった気もする。ニュースサイトにバイアスされず、Nuzzel のような social media aggregator とも違う切り口で読み物を拾えるのは悪くない。知り合いのブログも読めるし。知り合いのブログは日本語なせいもあってだいたい読んでる。
知り合いといえば Twitter も RSS 経由で読むことにした。自分は知り合い 2-3 人の動向を知りたいだけなので今までは twitter.com/username をブラウザで眺めていたのだけれど、今は FetchRSS の無料枠を試している。(似たようなサービスとして TwitRSS というのもあったが試していない。) 。特に素晴らしくもないけれど、用は足りる。
結果として今の自分のひまつぶし/情報フィード源は: Hacker News (最近は hckrnews という alternative frontend で見ている), Nuzzel (前書いた), Feedbin, NYTimes といったところになっている。たぶん NYTimes を一番みてる気がする。ぜんぜん tech じゃないけど。
Nuzzel の follower は自分の関心の推移に合わせて足し引きしたほうが良いのだろうと思いつつ、あまりきちんとは保守していない。Nuzzel 専用のアカウントを使っていて、操作が面倒なのだよね。基本的には Twitter ヘビーユーザ向けの道具だと思う。
E-paper device の reMarkable がいつの間にか発売されていた。vaporware だらけの epaper 業界、ちゃんと発売にこぎつけていて偉い。ほしいが、最近は論文読んでないのだよな。次に読みたい本は PDF あるだろうか・・・と思って調べると Adobe DRM protected な PDF しかなかった。そしてこれは今のところ crack されていないらしい。残念... DRM に innovation を阻害されてしまったよ。
人気のある軽い読み物は別に DRM protected だろうがなんだろうが適当なアプリとデバイスで消化するからいいけれど、ニッチで専門的なやつというか PDF の DRM は勘弁してほしいよなあ。物欲の機会を逸して悲しい。いつかまた論文読み期が来たら買ってあげるから潰れずに待ってておくれとそっとじした。
I ended up making eight posts last month, which is a lot fewer than other months.
This small project proved my lack of writing ability in the language. It takes longer, it is harder to articulate ideas, and the hardest part is that, it is so burdensome that I virtually cannot think while writing: The idea has to be clarified enough before being written down. It hampers the purpose of writing, as I write to think.
I'll keep this project as a kind of exercise for a while, probably by doing bi-monthly: In coming odd months I'll write with the accent.
たまには取った写真の Raw 編集をしてみたいが手元には Lightroom の動く Windows も Mac もない。それならと Android の Lightroom を試してみる。
Lightroom for Android は USB で繋いだカメラから画像を直接インポートできると主張している。具体的には USB PTP に対応している。自分のカメラ (LX100) も PTP を話すので繋いでみると・・・。なぜか RAW のファイルが見えない。JPEG は見えるのに・・・。
LX100 は (他のカメラと同じく) USB Storage としても動く。Storage 越しなら Raw が見える。では・・・と試してみるが、今度は Lightroom がよろしくない。USB Storage の接続を検知することもないし、ファイルを Intent にしても反応しない。
という感じで LX100 のいまいちさと Lightroom のイマイチさの組み合わせによりカメラの RAW ファイルを速やかに Lighrtoom に取り込む方法がない。むー・・・。
ためしに Files アプリで Raw のファイルを Downloads などのディレクトリにコピーすると、ようやく Lighrtroom からインポートできるようになる。たぶん Files アプリが RAW のファイルを MediaStore の content provider に登録してくれて、Lightroom はそれを見ているのだろうなあ。
このいまいちさをどう乗り切るか。自分専用の適当なアプリを書けばなんとかなるだろうか。
基本的には RAW ファイルをなんとかして content provider に登録するのが良いのだろうけれど、MediaStore は色々なメタデータ、特に thumbnail を登録するのが大変そう。RAW (CR2) のデコードなんてどうやればいいのかわからない。Files アプリ (DocumentsUI)は何らかの形で Docs (たぶん) の力を借りて CR2 の thumbnail を出している。なにかプロトコルがあるのだろうか...
どこか適当な場所 (Download とか) にファイルをコピーしておいて、誰かがそれを content provider に登録してくれると期待するのはどうか。もし動くなら楽っちゃらくだけど、Lightroom にインポートしたあとファイル消すとかが面倒だなあ。
といったところで挫折。
Lightroom がバージョンアップして USB ストレージから読むなり Intent を解釈できるなりしてくれればいいけれど、Gallery を camera roll とか読んでる Android 版のマニュアルを見る限り Android を理解しているひとが product design をしてくれる期待は薄い。
あとは PTP で RAW をみせてくれるちゃんとしたカメラを買う、というのも解決としては解決なのだけれど、そもそも高いカメラを買う前に自分が RAW いじりをする気になるか手持ちの道具だけで試そうと始めたことなので、金の力で解決はしたくないのだった。
その後 DocumentsUI のコードを睨んだところ、DocumentsContracts というクラスを使うと content provider の URI から thumbnail を作れるらしい。インストールされているアプリは DocumentProvider インターフェイスを介してそうした情報を提供する。Storage Access Framework というやつか。そんなのあったねそういえば・・・。
ただこれだと使える URL はこの SAF 越しに取得したものだけになる。USB Storage はこの SAF 越しに見える。ただしユーザが picker でファイルを選択してあげないといけない。SAF を使ってこの問題を解決するなら、SAF 越しに Raw ファイルを選択され、選択されたファイルを直接、あるいはどこかにコピーして、それを MediaStore に登録し、Lightroom には "Auto Add" 機能でそれを import させる。とかかなー。そんでおわったらコピーを削除。でよさそう。
それにしても冷静に考えると SAF 越しに USB Storage へのアクセスを提供するのは OS のはずで、そうすると CR2 のサムネイルを誰がどのように提供しているのか。まったく謎。
Is Anyone Good Enough for an H-1B Visa? https://nyti.ms/2hYFmmS
コメント欄、左よりな NYTimes だというのに外人こっち来んな勢が多くて辛いがつい読んでしまう。自分は US で教育を受けたエリート勢ではなく企業に輸入された労働力税なので特に。
自分の勤務先は、あたりまえだけど立場による給与格差はない。だからアウトソーシング会社の人々のようなあからさまな攻撃対象ではない。でもまあ、言語バリアがあって mediocre じゃね、といわれると全く反論できない。それに自分達外国人によって需給のバランスが崩れているのは、アウトソーシング企業を差し引いても事実だと思うし。プログラマはコモディティじゃないとはいえ、需要が増えれば価格は下がるからね。
自分は、ほんとにアメリカ国内の雇用を守りたいなら外国人の給料には課税すべきだと思っている。関税。ビザの数を cap するのは雑すぎる。関税がそうであるように、その税率は出身国ごとにセットすることになるだろう。そのバーがあってもなお雇いたい人材は雇えば良い。
給料が余計に課税されてもなお自分はここで働きたいか。程度にもよるけど、ノーかもしれないね。なので個人的に嬉しい制度ではない。その方が彼らの願いをより的確に捉えられるだろうというだけで。
アメリカに限らずあたりを見回してそういう「外国人税」が存在しないのは、国際的にそういうことはしない約束にでもなっているのかねえ。
今年の後半は家事育児の負担が増し、ほとんど何も出来ないままだった。時間の無さの内訳を書いても詮ないので詳細は省くけれど、今年の4月頃にも時間がないとか書いているのに輪をかけて何もできていない。
この状態が続くと、そして順当にいくなら最低数年は続くだろうが、プログラマとしての自分は終わると思う。正直なところ今の会社に入ったあと自分が以前より良いプログラマになったとは思わない(し、それは実績に反映されている)が、それでも時代への適応は一定程度してきたと思う。このままだとそれも終わり、やがて使えない年寄りになる。
多くの女性が結婚や出産を機にフルタイムの仕事を諦めることを考えると、これは自然な帰結に思える。共働きというのは、仕事への諦めを二人で折衷するということだから - つまりフルタイム労働はやめないけれど、そこから前に進むことも出来ない。折衷といっても奥さんは二時間労働時間を縮めているので自分の方がまだ多く働いている。フェアな分担でもない。
自分の主要な不安は、夫婦間の wage gap がありすぎるせいで職業的コミットメント低下に伴い自分の job security が下がる割に二重収入による financial security を得られないこと。つまり共働きは家庭の稼ぎを不安定にしていると感じてしまう。
この言い分はだいぶ横柄だし、 wage gap に文句を言うのは明らかに筋を違えている。それに自分で稼ぐという行為は純粋に金銭的な損得だけでなく個人の independence や dignity にも関わる場合があるので、単純に共働きをやめればいいというものでもない。自分も父親が早死したにもかかわらず母親が公務員だったおかげで無事大学を出られた経験があるため、共働きというか働く母親という概念の正しさには強いバイアスがある。海原雄山みたいな性格だったら葛藤もないのだろうけれど。
金銭的な不安定さへの不安とキャリアを追求できない不満を自分は分離できない。なのでこの金銭的な不安は単に自分の願望に言い訳を与えているだけではないかという思いがある。仮に自分がプログラマとしてのキャリアに集中できたところで、本当に金銭的な安定は増すのか? 自分の career investor としての実績をみるに多くは期待できない。
金銭と職業的コミットメントを関連付けられないのは、自分の今の収入がほぼ運頼みだと思っているからだろう。たとえば今この瞬間に会社をやめて、同じだけの収入が得られるだろうか。特に今のように nine-to-five の勤務で。まあ無理だわ。半分くらいがいいとこ。そして職業的コミットメントによって運と実力の溝を埋め切れる気がしない。かつて運が巡ってきた時にそれを掴みとるくらいの能力を持っていた点については我ながらよくやったと思うけれど、そのあとが続かなかったね。
収入との連動を約束できない自分の職業的コミットメント(つまり家をほっといて仕事したいというわがまま)のために、働く女性という個人の dignity/identity/ideology を犠牲にしろとは言えない。そうした犠牲を強いず済むのは社会の進歩のおかげでもあるし、運のおかげでもある。まあ自分のわがままをさしおけばいい話じゃないの。
この運もやがて尽きるだろう。その時にどうすればいいか。わからない。願わくばそれまでに一定程度の資産ができて、CoL の高い西海岸を撤収し日本で地味に働きながらほそぼそ暮らせば困らないくらいになっていたらいいなと思っている。あまりかっこいい話ではないけれど、運を頼りに理念を優先する人生の対価としては妥当なき気がする。
いちおう補足しておくと、これは自分個人の話であって何ら一般論ではない。共働きを勧めているわけでも、子持ち共働きが誰にとってもキャリアの終わりだと言いいたいわけでもない。職業的コミットメントと金銭的コミットメントを一致させ家族を養っている人もいるし、共働きをしながら良いプログラマでありつづける人もいる。自分がそうなっていないのは、個人としての価値観と能力と巡り合わせの帰結でしかない。要するに意固地で無能という話。仕方ない。
もうひとつ、自分はキャリアの終わりを予感しているし現状の収入は運だと思っているけれども、キャリアを終わらせたいとも運以外がまったく頼れないとも思っていない。家事育児の負担を金の力などで解決する方法は考えたり試したりしているし、役に立たない趣味はとっくに捨て、少しでも前に進むことができないかいつも考えている。ただ世の中には競争があるので、9時5時で帰って家事して飯食って寝てる人がガツガツ働いて帰ってからもコード書いたり読んだり勉強したりしてる人に勝てないのはなんというか、あたりまえじゃん?
この文章は愚痴だけれども、自分が総体として不幸だとは特に思ってない。日常は平和で、肉体的に追い詰められてもいない。仕事も嫌いではない。眠い、辛い、金がない、もう死ぬ、みたいなワーキングプア的苦しみには面していない。キャリアを追求できないだなんて、所詮は贅沢な悩みだとはおもう。